「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」  

                     2020年8月30日            西村義人兄

  マタイ20116      招きの詞 マルコ102931

 

牧師が不在時の礼拝説教の代わりに、会員みんなで支える教会を目指し、信徒説教というのは恐れ多いので、聖書から受けるメッセージを語ろうと、今日ここに講壇に立ってお話することに致しました。

今日の聖書の箇所、マタイ伝の有名な「ぶどう園の労働者」のたとえは、私にとってずっと理解に苦しむ箇所でした。

私は所謂、団塊の世代で、戦後日本の成長と伴に歩んできました。

子供の頃の戦後の貧しかった時代も知っています。

父が連れて行ってくれた板付空港からセーバージェット戦闘機が轟音とともに飛び立つのを見て驚きかつ憧れ、将来パイロットに、との夢は近眼になり、すぐ挫折。あれは朝鮮戦争に出撃していたのでしょう。

そして社会人になって、“戦後は終わった”とのスローガンを背景に、時の首相たちが「所得倍増」(池田隼人)や「日本列島改造」(田中角栄)等の掛け声のもと、働け・働けとモーレツサラリーマンが賞賛され、結果、世界が驚くほどの急成長を遂げ、日本は経済大国になりました。我ながら、がむしゃらにとまでは言えませんが懸命に働きました。

早朝から夕方までフルタイム働いた賃金=1デナリオンを貰う人、がいる一方で、夕方5時頃雇われた人も同じく1デナリオン貰い、最初の人が不平を言うと、主人は「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」(2015)と逆にまじめに働いた人が叱責された。という話です。

このぶどう園の主人の方が非常識と思って腑に落ちないままでした。

自分を早朝から働いた労働者としか見なかったのです。

現代の高度資本主義社会に生きる我々からすると、労働の対価は労働の長さに比例するというのは常識です。この自由競争・資本主義があまりにも経済格差が大きくなってしまい、マルクスという人が「資本論」を著し、平等主義をとなえ、その経済学理論のもとロシアでレーニンという人が実践、革命を起こし建国したのが旧ソヴィエト連邦、戦後日本の敗戦で混乱の中国で成立したのが毛沢東の中華人民共和国です。でも今やソ連は解体し、どうも成功したとは言えません。その原因と理由については難しい話になりますので今日はその話は置いときましょう。一つだけ言えるのは「あいつがオレと同等というのはおかしいじゃないか」という人間の生来の感情というものを経済学の理論に組み込まなかったからだと私は思う。

この箇所をひも解いてみましょう。聖書学者によると

「家の主人」=神様、人の子イエス

「ぶどう園」=イスラエルの歴史

「労働者」=ユダヤ教徒とキリスト教徒

解く鍵は少し前のマタイ192830P37)です。読んでみます。

“イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、私に従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」”

平行句はマルコ102931P82)にあり、ルカ1829,30P145)にもあります。ということは、イエスが実際に言われた言葉=伝承句の可能性が高いと専門家には言われております。(ちなみにこのマルコでは迫害を受ける者には父が入っていますが、永遠の命を受ける側には父はあえて除かれています。これにつきましては今日のテーマと話が逸れますので割愛します)すなわち、終末時における人間の運命の逆転を預言する、イエスが実際語られた言葉だし、イエスの神の国に対するイメージを語っているのです。朝から夕方まで雇われた労働者とは、アブラハムから始まる長いイスラエルの歴史を担ったユダヤ教徒のこと。出エジプト、バビロン捕囚・・・等々旧約聖書に記されたユダヤ民族の長い歴史。

一方夕方5時頃雇われた労働者とは、このマタイ伝が書かれた時代では、つい50年ほど前に発生したキリスト教徒のこと。

つまり長年苦労して神の歴史を荷って来た者と、ごく最近になって短時間それを担ったに過ぎない者とに同一賃金を支払うとは!ということです。それに対するイエスの答えは、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(2016)です。

ここのぞみ教会においても、最近バプテスマを受けられた方が居られます。古い信者も居られます。設立以来30年以上にわたり支えてこられた亀井先生ご夫妻はじめ由美子姉、真美姉、恵子姉他召された方もおられます。そして一方、今年6月に仲間になられた芳野姉。そして今、のぞみの仲間に入る決心をされ、その準備をされている松井兄。

「神の国の映し」としての教会ではこの世の価値(期間の長さ)で測られるのではなく「同一の報いは神様の約束なのだよ」とイエスは我々に示されました。イエスはたとえ話を通して語られるのは答えではなく、ヒントなのです。答えは我々一人ひとりが考えそして答えを出し、それに則って行動せよと言われているのではないでしょうか。

このたとえ話からもう一つのメッセージを読みたいと思います。

この時代はユダヤ史の中でも最も失業者が多く出た時代の一つと言われており、日雇い労働者として、からくも生活を保っていた人々が大勢いた。その中でも仕事にありついた者(夕方5時ごろ雇われた労働者です)はまだ人間扱いされていたが、あぶれた者は「極貧者」としてユダヤでは「罪びと」のカテゴリーの中に入れられていました。

彼らは好んで「罪びと」になったのではない。誰も雇ってくれないから「罪びと」になったに過ぎないのです。

現代、我が国のあいりん地区、山谷の状況を考えてください。

早朝、手配師により「労働者」として選別されるのは、きつい仕事に耐ええる体を備えた者であり、はじかれるのは、病気や障がいを持った人々。しかし彼らに何の責任があるのだろうか。

「ぶどう園のたとえ」とは、「天の国」「神の国」のたとえ。イエスにとっての神の国を我々に分かりやすく理解できるように話されているわけで、そこでは、人間はすべて約束された「賜物」(1デナリオン)としての存在に於いて平等であり、人間として生まれたことに於いて平等である、と。

神の国とは「神の愛の支配」として今ここに「実にあなた方の間にあるのだ」と言われているのです。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなた方の間にあるのだ。」(ルカ172021)。空の上・西方浄土にあるのではなく、今生かされているここに、すぐ隣にいる人々(夫・妻・友人・・・そしてよきサマリヤ人のたとえ話が語るように、病人・弱者)を愛するそのことが神の国・天国なのだよ、と。

「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」”

 

とのイエスの言葉をもう一度よく嚙みしめ、ぶどう園=神の国の映しとしてあるべき、ここのぞみ教会において、兄弟姉妹と一緒に信仰生活を守っていくことを喜びとして・・・。主に感謝します。アーメン