「新しいイスラエル」         2018年3月11日

 

 マルコ11:15~19   招きの詞 創世記32:23~29

 

 

 

 皆さま、お早うございます。今朝は春の陽射しで明るく暖かい感じですので、いよいよ春ですね。でも今日は3.11と呼ばれる東日本大震災の7年目の日です。春の嵐も有りますが、それにしては本当にひどい事ではありましたし、更に熊本の地震、北部九州の大水害も有りまして、先日もTVを見ていましたら、奥様が行方不明のご主人が待って居られて「先に逝くわけにはいかない。」と頑張って居られます。こんな大災害の時に神は何処に居られたのか、何をしておられたのかという問いが出て来ました。災害は前から在るのですが、現在はこれが強く言われる様になっています。私も聖書を読む一つのポイントとしてこの3.11、その他の災害や戦争などの悲しい出来事に、イエスは何を語っておられるのか、神は何をして居られるのかを考えて、被災者の方々にどんな言葉を掛ける事が出来るか、それを問い続けています。幾らかの方々も、以前の聖書の理解と変わらなければならないと考

大震災から7年目ですが、「もう7年経った。」というのと、「まだ7年。」という受け止め方があります。行政とか東電は「もう7年」だから、仮設住宅も撤去する、今年の3月で仮説住宅は終わります。でもあと173世帯の方々は、その後に行く所がありません。被災者の方々にすれば「まだ7年」で、心の傷も癒えなくて悲しさを拭い去る事が出来ないお気持ちだと思います。私たちも「まだ7年」という気持ちで祈り支えていかなければならないと思います。少し横道に逸れますが、先ほど司会の由美子姉が「実数を大事にしなければならない」と言われました。それは偶々私も思っていた事です。あの太平洋戦争中にミッドウェー島を巡って大きな海戦が有りました。日本の正式空母3隻が数分の内に沈没し、残る1隻も後で沈没して、それまで優勢だった日本海軍は守勢に回ってしまいました。この時の戦没者を日本は大体の数字でしか掴んでいませんでした。そこに皆さんもご存知と思いますが、澤地久枝という作家の方が、何年も歳月を掛けてこの海戦で亡くなった方々一人一人の遺族を訪ねて、アメリカ側の戦死者の遺族も訪ねて「滄海ウミよ眠れ!」という作品を書かれました。亡くなった方一人一人がどんな人で在ったのか、その実像を描かれました。アメリカ側では初め、日本人には会いたくないという遺族も居られましたが、根気強く説得されて話を聞かれました。実数以上に一人一人の実像を甦らせようとされました。とてつもない作業で、まだコンピューターも無い時代でしたので沢山の助手の助けが必要でした。それは一人一人を大事にするという事です。それまで日本では概数で捉えていました。やはり一人一人生きておられた、それを大事にして、被災者の一人一人を覚えたいとえておられます。私も出来るだけその線に沿って聖書を読ませて頂きたいと願っています。中々難しいですね。

 

 

  今朝は「新しいイスラエル」という題にしましたが、イスラエル人とユダヤ人と言いますが、同じと思われますか、違うと思われますか。ユダヤ人の大迫害がありましたが、イスラエル人の大迫害とは言いませんね。イスラエル人は「神に選ばれた民、選民」とよく言われます。イザヤ書44:1を見て下さい。「そして私の僕ヤコブよ、私の選んだイスラエルよ、聞け。」と在ります。これはヤコブが神と戦ったという出来事からヤコブの事をイスラエルと呼ぶようになったのです。ヤコブの子孫が生きて来て今に至っているのです。ヤコブはユダをはじめとして子供を産みますが、その一番下がヨセフです。この辺りの話はご存知だと思います。イスラエルの民はエジプトに長く住んでいる内にエジプト人の奴隷となっていました。それが出エジプトの動機になりますが、聖書巻末の地図1をご覧ください。カナンが元々ヤコブたちが居た所ですが、エジプトに行き、数百年後にモーセに率いられてシナイ半島を40年掛って横断して、戻って来ます。もとのカナンにはまだペリシテ人は居ませんでしたが、エジプトに居る間に、地中海のどこからかやって来て定着していたのがペリシテ人です。そこでイスラエル人との闘いが続きます。今もイスラエルとパレスチナとは闘って入ますが、パレスチナ人がペリシテ人の子孫です。いまだに闘いが続いているわけです。神に選ばれた民としてのイスラエルですが、実はイスラエルはヤコブの事な

 

 

  新約聖書でも、神を信じる様になった人を神に選ばれた人だと書かれています。ヨハネ15:16では「あなたがたが私を選んだのではなく、私があなた方を選んだ・」と在ります。神の選ばれた人々が集う教会を「新しいイスラエル」と呼びます。私たちが聖書を読む時に「イスラエルよ、聞け。」などが出て来ますが、それは教会に集う人々を新しいイスラエルと捉えているからです。元々イスラエルとは「神と闘う人」なのです。結局は「神と向い合う」訳です。実際の長い歴史の中でイスラエルの人々は、中でも神殿で神に仕える人々は神の威光をバックに、

 

 人々に参拝に来させ、献げものをさせて、自分たちだけが豊かに成って行ったのです。その陰に貧しい人々が放り出されていました。律法を強制し、従わない人々を罪人と呼んでいました。自分たちだけが豊かに成るのは、今もどこかで起っています。神と戦ったヤコブでしたが、新しい意味で神と戦った人が、イエスだと私は思います。普通イエスは神に遣わされた人ですし、父なる神に従いました。しかしイエスは神に向かった人でもありました。十字架上の最後の言葉「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と、神に向かって問い掛けています。神の威光を背中にして人々に向かわれたわけではありません。

 

 神に向かって「どうしてですか?」と問い掛けたのです。この声は多くの自然災害や戦争の犠牲者たちの声だと私は思います。「どうしてですか?」との声は、神に向かって戦う「新しいイスラエル」の声なのではないかと思います。少なくとも神に向かっています。神の威光を背にして、利益を得る人ではありません。被災者の方々が「神様、どうしてですか?」と問い掛ける姿を、「新しいイスラエル」と呼ぶことは出来ないでしょうか。そして私たちは神に向かって下さったイエスに助けられました。或は希望を与えられました。ですから私たちもイエスに倣って「神に向かって行く」べき者なのです。それと被災者の方々が「神様、どうしてですか?」と声を上げる。その意味で教会に集う「新しいイスラエル」と被災者の方々とは「共なる人」として「友なる人」として覚えたいのです。東北の遠い所の人々ではなくて、兄弟と言うか友なる人、或は「隣り人」と言うべきでしょうか。その意味での被災者の方々だと 思っています。「神に向かって戦う、問い掛ける」イスラエル、新しいイスラエルですし、私たちもイエスに倣って神に問い掛ける新しいイスラエルだと思います。そしえ、「主よ、憐れんで下さい。主よ、お助け下さい」と祈るべきではないでしょうか。出来る限りの援助をしなければなりませんが、「神様、どうしてですか」という声、また声にもならない思いを、私たちも同じ声、同じ思いを持って神に向かって「どうしてですか。どうか憐れんで下さい」と祈るべきだと信じます。大きな闇の下で悩み病んで苦しんでいる人々の思いを私たちは共にすべきだと信じます。この方々こそ、私たちの隣り人だと、いまこの聖書から受けています。東北や九州などで苦しんでいる人々、或はシリアやスーダンで命からがらの人々、難民キャンプで苦しんでいる人々の「神様、どうしてですか?」という思いを、私たちの隣り人として、できれば具体的な名前や生き方や、その思い悩みを共にする「新しいイスラエル」としての兄弟、隣人として受けて、イエスに従って祈る者で有りたいと願います。