「希望を持って忍耐する」     2020年年5月10日

Ⅰテサロニケ1:1~3   招きの詞コロサイ1:24~29

 

 皆さま、お早うございます。お変わりなくお元気でお過ごしでしょうか。主イエス・キリストのお守りをお祈りしています。コロナウイルスの緊急事態は、福岡県でも5月31日迄延長されました。学校もお休みで、勉強の時間が取れないので、夏休みや冬休みも無しの議論が出たり、この際、9月新学期制を取り入れるべきなどの意見も出て、子供たちや生徒たち、先生方、その他現場の方々は大変だと思います。少しでも早く元のレベルに収まって欲しいと願うばかりです。

 

 それにしても、こんな大変な状況で個人差が大きく表れています。休業の店での盗難が多発して、火事場ドロボーも居るんですね。国民性も現れて、マスクが足りなくて手に入りにくいので、日本人は自分用、家族用の手作りで、その作り方がネットに出たりしますは、中国では大量生産して世界に売りまくり、粗製乱造で今では億単位で世界から返却されているそうです。またこの時を正当なビジネスチャンスにする人たちも居ます。飲食店に人が来られないので、弁当などを運ぶ配達業がビジネスになっています。

 

 私たちは苦しい時は、何とか其処を切り抜けようと我慢もし忍耐もします。自発的にする事も在りますが、多くの場合、上から外から強制される事が問題です。だいぶ古い話になりますが、太平洋戦争中、日本の形勢が悪くなると、「欲しがりません、勝までは」と、勝つ希望を抱かせながら、国民に犠牲を強いました。食料・酒その他生活必需品を国民は耐乏生活で、配給の列に並んで手に入れていましたが、軍部や政治家、財界人など一部の特権階級の所にはたくさん在ったのです。しかし、その特権階級の軍人でも個人差が在って、私的な流用をはっきり拒んだ人たちも居ました。私が知る所では海軍の米内光政や井上成美などはそうだったようです。戦争に負けると「一億総ざんげ」と国民皆が悪かった様に思わされました。責任のすり替え、責任逃れが起こりました。日本人は日本人の手で、戦争責任をはっきりさせず、連合軍の東京裁判の結果をあっさり受け入れました。だから福岡出身の宰相広田弘毅も、戦争を起こした軍人と共に死刑になり、天皇の戦争責任も問われないままになりました。イタリアではムッソリーニは殺されて、大戦の終りの時にイタリアは連合国に入っていました。ヒトラーも自殺したとされています。

 

 これが日本特有なのか分かりませんが、どこか皆の責任にすり替えられ、何かしらの精神主義は、このコロナウィルスの非常事態でも求められています。外国では客観的に事態を収めるために「法律」を作っています。しかし、日本では「自粛」という精神的な強制を強いられています。政府はこの事に対して、客観的な責任を取りません。今だけではなく、最近の幾つもの事件での姿勢がそうです。張本人が全く責任を取らず、官僚に押し付け、官僚も「忖度」に走って自己の利益を求める流れとなりました。検事の定年延長問題も有耶無耶の内に成立させようとしています。各家庭にマスク2枚配布とか、10万円の支給でも、「欲しい者には手を上げさせる」等と言う大臣も居ます。アメリカなどでは小切手を用いて1週間くらいで済ませる事でしょうが、私たち庶民にはいつになるのでしょうか。

 

 感染症がある程度収まって、元の生活レベルに戻る時も来るのでしょうが、元々、私たちが生きる道筋に希望は在るのでしょうか、未来は在るのでしょうか。私たちが今しっかり考えるべきポイントが此処に在ると思います。先週、「理性でも祈る」奨励をしましたが、ポイントが此処に在ります。私たちはイエス・キリストによって希望を与えられていると信じています。「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が今や神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものあるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内に居られるキリスト、栄光の希望です。」(コロサイ1:26,27)とパウロが言います。しかし、この「あなたがたの内におられる」、即ち「わたしたちの内におられる」キリスト、栄光の希望は、パウロにとっては、イエスの十字架の出来事を抜きにしては有り得ないのです。また、こう語っています。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」(第2コリント4:10,11)「イエスの死を体にまとう」とは、イエスの死が私たちのための客観的な出来事であり、これは打ち消しようがない、私たちの体の内にイエスの死が在るという内在的な事ではなく、歴史的な出来事ですから、外からも体に巻き付いているという事なのでしょう。

 

 イエスの十字架の出来事は、私たちが生きている事と別の事ではないとパウロは言っているのです。イエス・キリストによる命の希望は単に体の内にとか心の内に在るとか、信仰すれば在るという事ではないのです。出来事なのです。しかもその出来事は、普通には有り得ない、特別の出来事です。最終的にイエスを死刑と決めたのは、ローマ帝国の権力を代表する総督ピラトでした。ピラトはユダヤ教の祭司長、律法学者たち、それに群衆がイエスを死刑にという訴えを最終的に飲んで、死刑に決めました。ピラトはイエスの罪状書きに「ユダヤ人の王」(マルコ、ルカ、ヨハネ)と書かせていました。ユダヤ人の王は、サウロに始まり、ダビデ、ソロモンと、神に祝福の香油を注がれた者です。ヘブル語でメシア、そのギリシア語訳がキリストです。この「神に祝福された者」を、神に仕えるという宗教家たちが殺したのです。

 

 

 イエスはガリラヤの極貧の人達プトーコイに象徴される、罪人として疎外されていた弱く小さくされた人々を、庇い、力づけ、励まして、律法学者、神殿宗教家に睨まれ、怒りを買い、死刑にさせられたのです。イエスは自分の命を懸けて、この弱く小さくされた人々の希望となって戦われました。イエス・キリストの十字架の出来事こそが、私たちの命の元であり、希望なのです。この希望は、精神主義的な事ではなく、客観的な出来事なのです。神に祝福された方が、極貧の人々のために殺され、さらに三日後に、復活され、今も尚、生きて私たちと共に居て下さるイエス・キリスト、その方なのです。この方が私たちの希望です。偽りの希望の下に、忍耐を強いられたのではなく、私たちが作り上げ、祭り上げた方ではなく、死の十字架に架けられ、復活されたイエス・キリストの忍耐による希望なのです。私たちが希望を求めて忍耐する事ではありません。イエス・キリストが、全てを父なる神に委ねて、死を耐え忍ばれた十字架の出来事による希望を私たちは頂いているのです。ですから、私たちは必死な思いで忍耐するのではなく、「希望を持って、忍耐できる」のです。恵みとして、希望の下での忍耐を頂いています。イエス・キリストの十字架 感謝 アーメ