「金持ちが神の国に入るよりも」       2018年2月25日  

 ルカ18:18~425     招きの詞マタイ6:24

 

 皆さま、お早うございます。厳しい寒さもやっと緩み始める感じですが、まだ急に寒くなったりしますので、お気を付け下さい。今日と明日は九大を始めとする国立大の前期入試の日です。受験生たちが日頃の学びをしっかり出して欲しいと願います。センター試験の時は非常に厳しい寒さで雪にも悩まされた所も在りましたね。今朝は議員、大変なお金持ちの話を選びました。いま国会で働き方改革という事で如何にも働く人の側に立った改革を進める様に聞こえますが、そこに出されたデータが滅茶苦茶とか問題になっています。これも実は民間企業、使用者側が求める規制緩和の一つなのです。安倍政権下では籠池事件もそのままですし、その時の近畿財務局長は国税庁長官になりながら、一度も公に姿を現していません。忍者にでもなるつもりでしょうか。

 

また2020年には東京でオリンピック、パラリンピックが開かれますが、国際的にも問題の喫煙規制の問題です。安倍政権は及び腰です。世界の多くの国では、公の場所での禁煙はもう常識になっているのに、日本はまだそれが決まりません。何故かと考えますと、たばこ産業に関わるいろんな所を守るという姿勢も在りますが、実は財務省のお役人の天下り先にJTは非常に魅力があります。(専売公社時代からの繋がりが深いからと考えられます。)ですから禁煙に関して前に進まないのです。とにかく、議員さんは地方議会も含めて富と深くつながっているのでしょうね。聖書に出て来る議員は最高法院・サンヘドリンの議員です。政治・宗教に関して裁く事が出来ました。政治はローマが上に居ますが、この時期はまだ、或る程度地方自治を認めていた時代です。特に宗教に関して、ユダヤ人は頑固なので、大目に認めていたのです。そこで権力と富を一手に握っていた議会です。遂にはイエスを自分たちの安全や富を脅かす者として殺してしまうのを決断した議会です。死刑はローマの総督が決める事になっていたのですが、ステファノは法院と関わりが無い場面でしたので、民衆が石を投げて殺しました。

 

この金持ちは何をしたら永遠の命が受けられるかとイエスに尋ね

ます。律法は子供の頃から守っていましたが、何か足りないのではないかと思ったのかもしれません。イエスが「あなたに足りない事がもう一つある」と言いますので、ドキッとしたでしょう。持っている物を全部売り払って貧しい人に施しなさい、そして私に付いて来なさいと言われたので、びっくり仰天です。でも金持ちだけではなく、貧乏な私にも出来ません。それはある意味で、死を意味します。お金をたくさん持っている人、持ってない人とかの区別はなくて、全部売り払って貧しい人に施す事は出来ない相談なんです。だからみんなびっくりして、「じゃ、誰が救われるのか」と思うわけです。お金持ちや議員だけの問題ではなくなったのです。

 

それに対するイエスの答えが今まで、何と言いますか、高飛車と言いますか、ぶっきらぼうと言いますか、何と不親切な答え方だと、引っかかっていたのです。「人間にはできない。だが、神には出来る」と言われました。らくだが針の穴を通る話もされましたが、人間にはできない。だが、神には出来ると言われたのです。皆様方はこれで、そうなのかとすっと納得されましたか。私には何か引っかかり、日頃貧しい人々を励まして下さったイエスの言葉としては腑に落ちなかったのです。人間には出来ないと言われましたが、何が出来ないのか。持っている物をすべて売り払って貧しい人に施す事は人間には出来ないのか、或は人間はとても神の国に入ることは出来ないと言われたのか。そして今度は神には出来ると言われます。何が神には出来るのか、全財産を売り払って貧しい人に施す事が神には出来るのか、これはどういう事かなと思いますし、神が神の国に入ることは、ご自分の国ですから当然出来るでしょう。なにかず~っとここに拘って、思いがすっと先に進まない状態でした。ず~っと心に温めていました。

 

ところが、聖書を読む事の不思議さと言いますか、やはり聖書は生きた言葉と言うのか、夜中にふっとこれがポイントだと与えられたのです。「神には出来る、全財産を貧しい人々に施す事が出来る!」、これだと思いました。永遠の命に入ることではなくて、財産を貧しい人々の為に使う!その時に浮かんだのが、このアイヘンバーグの絵です。イエスが教会の炊き出しを待つ人々の中に並んでおられます。それはイエスが無一物になられたという事なのです。教会から頂くご飯をイエスは食べなければならなくなられた、という事ではないでしょ

うか。この姿になられた、これが夜中にふっと浮かんだのです。「人間には出来ないけど、神にはできる」とは、この事だったのです。神には普通には考えられない、全財産を貧しい人々の為に使う、命を貧しい人々の為に使う、そういう無一物の人になって下さった。無一物の人になられた、この出来事なのです。

 

私は全くこんな事を思ってもいませんでしたし、「神にはできる」。だから神はなさったのです。一方的になさったのです。何を為すべきかの問いに対して、お前たちには出来ないよ、何をなしたら善いかの問題ではないよ、人が何かをすれば済む事ではない、人間には出来ない。だから私が無一物になって、私の命をすべての人の為に注ぐから、とこの出来事になったのではないでしょうか。「人間には出来ないけど、神には出来る」の言葉は只の教えではなくて、このイエスが無一物になられた出来事を指していると信じます。だからイエスのご返事が、高飛車というかつっけんどんに聞こえているのかも知れません。この言葉を受けるか受けないか、全財産を人が売り払って貧しい人に施すかどうかではなく、イエスがその事を果たして下さった出来事、この出来事の中に私たちが包まれているのです。この事を今回、この言葉から受けました。

 

神ご自身が、全てを投げ出して、貧しい人々に施して下さった、命を注ぐために、貧しい人々、弱い人々を訪ねて励ますために、私もあなたと同じだよ、だからあなたも希望を持ちなさい、と人々を訪ね人々に出会って下さった、そして今も出会っていて下さる、この出来事、これを指す言葉なのです。私たちは何をしたら良いだろうかとか、どんな信仰を持つべきか、どうしたら永遠の命を受け継ぐことが出来るか、神の国に入ることが出来るか、いろいろ考えます。でも私たちが何かを為す事ではなく、イエスご自身が私たちにご自分の命をすべて投げうって、私たちに施して下さる、注いで下さる、だから、何をすべきか心配するな、あなたが何も出来ていない事ではないよ、人間には出来ないと分っているから。だけど私には出来る。神には出来る。だから私がそうするのだよ。私がする出来事を見なさい。そして私に付いて来なさい、私と一緒に居なさい。私が一緒にいるのだから。この事を今朝は頂きました。心から感謝致します。イエス様 アーメン