「平和の道具 Ⅲ 地を受け継ぐ」  2018年9月9日

 

 ヨハネ12:23~26     招きの詞ルカ2:14

 

 

 

皆さま、お早うございます。今朝はかなり冷えましたね。自然は動いていますが、先週は災害が大変でした。台風21号に北海道の地震も両方とも規模が大きくて、被災者の方々が主に励まされ慰められますようにとお祈り申し上げます。マタイの山上の教えに、「柔和な人たちは幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」とあります。この意味が今もよく分かっているとは思えないのですが、「地を受け継ぐ」、つまり「地」とは何かと考えて来ました。実は、大地、地域、領土は戦争の種に、今でもなっています。中国とインド、インド・パキスタンの間でも、中国とベトナム間にも領土をめぐる紛争が続いています。その他、多くの地域でそうです。争いの種にこそなれ、平和の種になるのでしょうか。豊かに実る大地です。中村哲先生はアフガニスタンで荒地に水を引いて豊かに実る大地を作られました。この意味では「平和の種」にもなり得ると思います。それこそ「地道」な努力の結果です。本当に足を大地に付けた努力を意味している様に思えます。豊かな土地を巡っての争いも有りますが、逆に人々を支える大地でもあります。

 

 

 

 もう一つ、「一粒の麦、地に落ちて死なずば」という言葉がありますが、これまで「死ねば豊かに実る」という麦の方だけを見ていました。「地に落ちて」の「地」を見ていませんでした。一粒の麦をイエスの十字架の例えとして、イエスが死んで、復活されることを見て来ました。しかし「大地」に落ちて死ぬわけです。大地は「死」を受け入れるのです。地は死を受け入れるのです。地道に努力された方々が居られるのですが、「死」を受ける大地を考えますと、ガリラヤを思います。ガリラヤも豊            かな所なのです。ですから、昔から占領され、収奪された所です。土地の人々は貧しくされていました。貧しいどころか「極貧」の意味なのです。貧しい寡婦の献金の場面の話がありますが、この寡婦も「極貧の寡婦」なのです。レプトン銅貨2枚を現在どの程度か分かりませんが、10円銅貨2枚と考える事も出来るかもしれません。これが彼女の生活費の全てなのですから、その貧しさの程度が分かります。そんなガリラヤの状況です。現代では沖縄を例えられると思っています。沖縄も実り豊かな所ですね。海の幸も豊かです。東北もそうです。

 

 

 この様な地を受け継いだ人の一人が先週お話した金城実さんでしょう。沖縄の悲劇を彫刻に彫り続けた人です。或は先日亡くなられた翁長前知事も沖縄の地を受け継いで戦われた人です。その先輩には瀬長亀次郎さんがおられました。その他にも無名の方々が、そして東北にも大地を受け継いだ人々がおられたと思います。「一粒の麦、地に落ちて死なずば」と死を受け入れる大地です。大げさに言えば「死を飲み込む大地」です。死を沈み込ませて、そこから命を生み出して返していく、大地です。今度の北海道の山の地滑りは見渡す限り崩れています。大地は自然災害を起こしますが、イエスの言葉では「死を飲み込む」所なのです。実らせるだけではなく、その為には「死を飲み込んで」いる所です。その意味では、実りは死を越えなければなりません。イエスの十字架の死を超えなければなりません。それが「復活」です。父なる神は「復活」を創り出された、とも考えられます。完全に死んだ人が、生き返る事はそれまで無かった事でしょう。神が新しく創り出された事なのではないでしょうか。その様な、死を飲み込んで、新しい命を生み出す、それが大地なのです。自然の在り方です。この死を飲み込むという「負」の面がないと豊かな実りはありません。この「死を飲み込む大地」こそ、平和の種になる気がします。

 

 

 

 この「一粒の麦、地に落ちて死なずば」の「地に落ちて」の言葉ががあ~んと響きました。地の大きさ深さ、今まで「死を飲み込む大地」とは考えた事がありませんでした。だからこそ豊かな実りを返してくれる大地なのです。自然災害も何とか乗り越えなければなりません。悲惨で悲しい出来事ですが、これを超えなければならないのです。そこから「命が生まれて来る」と聖書に書かれている気がします。紛争の種ではなく、平和の種にする地の意味で、地産地消の地、地元の地、こんな事を含めて大地の地を考え直しても良いのではないでしょうか。「命を育む」、これが神の御心であり、主イエスの願いだと思います。イエスの十字架の死、これを命に代えるもの、それが大地として象徴されえいるのではないか。大地とは「死を命に代える」、そして「命を生み出す」、これこそ神の御心だと思います。死を命に代える父なる神の御心、憐れみ深い御心、これこそを平和の道具として、平和の道として、私たちは歩むのではないか。彫刻のノミの一打ち、一打ちがそうであるように、地道に歩むことではないでしょうか。平和への道としてこの大地が用いられて行くのではないでしょうか。死を命に代える、父なる神の御心、イエス・キリストの十字架と復活、これこそが「地」として象徴されている事なのではないか。これこそが私たちが平和に向かう道筋の大きな一つだと信じます。死を飲み込む大地、そして豊かな実りを私たちに返してくれる大地、十字架の上で死なれましたが、復活された主イエス、この意味での大地の凄さ、これを今回受けさせて頂きました。自然の災害も有りますが、それを超えての実りを頂いています。主イエス・キリストの十字架と復活、それを私たちが生きる大地として、平和へ向かって歩む様にと祝し導いていて下さいます。

主イエス・キリストの十字架と復活、アーメン