「孤独のスパイラル」          2020年1月12日

 

 マタイ8:1~4    招きの詞ルカ8:42~48

 

 

 

 皆さま、お早うございます。先週は認知症の介護のプロの方のお話をしました。認知症も様々でしょうが、段々自分に引き籠ってしまう方が多く居られます。そこで今朝は、孤独についてお話をしたいと思います。先ほどの聖書の箇所では、テーマは重い病が癒される話でしょう。その癒された二人の心の内を考えてみました。やはり非常に孤独な思い、悲壮な思いを抱いていたと思われます。誰も助ける事が出来ない。誰にも頼れない。「孤独な」を英語では、aloneアローン と言いますが、これは all (全く) +one (一人)から生まれた言葉です。さらに lonely とか lonesome などの言葉も生まれました。しかし孤独は全く一人しか居ないから孤独というわけでもなさそうです。大勢に囲まれていても一人、孤独を感じるとよく言われます。

 

 

 

 第二次世界大戦のヨーロッパで、連合軍の最高司令官はアイゼンハワーでしたが、彼がアメリカ大統領のルーズベルトから任命される時に、「今まで、合衆国大統領の自分が一番孤独だと思っていた。しかし、これからは最高司令官の君が最も孤独になる」と言われました。孤独とは助けてくれる人が居ないという事でしょうか。どんな事になっても自分一人が責任を負わなければならないのです。助けて貰えない、そこから二つのタイプが出て来ると思います。一つは自分で何とかしようと、頑張る人です。よく一匹狼と言われます。今度ハリウッド映画で「トップガン2」が在る予定ですが、その主人公のパイロットはコールサインを「マーヴェリック」と言いますが、これは一匹狼という意味です。孤軍奮闘という言葉も在ります。

 

 

 

 もう一つは、自助努力が出来ない人です。大体の人は自分で何とかしようと思うし、すると思います。しかしそれが段々出来なくなって行く、それを今朝は「孤独のスパイラル」と名付けました。その時、自分に責任が在って、孤独になる場合も在りますが、そうでない場合もたくさん在ります。現代では、自分に問題が無いのに、頑張っているのに、どうしても孤独に追いやられてしまうケースが多いです。聖書の重い皮膚病の人は、自分の責任でそうなったわけではありません。でも罹ってしまって癒す事が出来ない。自分ではどうしようもないのです。長血を患って居る婦人も、いろんな人を頼りますが、どうにも良くならない。お金も無くなって、本当に孤独な思いに陥っていたでしょう。二人とも自分ではどうする事も出来なくて追い詰められています。その状況でイエスの話を聞いたのです。自分は人々から見放されてしまったが、イエスなら何とかしてくれると信じる気持ちに追いやられていたでしょう。絶望の淵に陥っていたでしょう。

 

 

 

 今の日本で孤独死しているケースが非常に多くなっています。その孤独死予備軍が1000万人いるという人も居ます。その原因も様々です。例えば、大震災の被災者の方々です。仮設住宅で過ごしました、行政に依っては、今まで全然知らなった人々が住む事も起こりました。仮設住宅も、もう期限が来たからお終い。そこから自立できる人と出来ない人が生れます。出来ない方々はひっそりと孤独の中に今も沈んで居られるでしょう。表面に出て来ないだけで、マスコミも報道しません。私たちも知ろうとしない。のぞみが僅かでも献げる事は、ぜひ続けなければならないと思います。それでどうにかなる事は殆ど無いでしょうが、知らぬ顔は出来ません。孤独に陥る人は高齢者ばかりではありません。いま問題になっているのは40~50代の方々です。50代の人の孤独死が結構在るそうです。その原因の一つは、ちゃんとした仕事に就けない事です。非正規社員は益々増えて、酷くなっている。怪我や病気をすると切り捨てられてしまう。5年間しか雇わないとか、雇用者側は様々、考え出して、人件費を抑えて、会社の利益を上げる。内部保留にする。

 

 

 

 東京辺りで月15万円以上は収入が無いので、二つかけ持つ、など無理をして体を壊してしまう。ますます落ちて行きます。この状況は、やはり政治の問題だと思います。経済格差が拡大して、それを放置しています。ほったらかされています。これはイエスの時代も全くそうだったと思います。神殿にお参りに来て献げものをしなさいとは言いますが、祭司たちが自分から貧しい人たちの方へ降りて行く事は無い。神殿にお参りに来なさいと言うだけです。誰も世話をしない。放置しています。貧しい人々、病人、寡婦とか、段々孤独の状況が酷くなる。その只中のガリラヤにイエスは向かわれたのです。ガリラヤは元々豊かな土地なのですが、そこからの収益は一部の人々に獲られてしまう。捨てられた人々の姿をイエスが見て、ハラワタが痛くなった程です。

 

 

 

 その状況に身を置いたイエス、その中で貧しい人々に手を差し伸べた。それが所謂宗教者たちの反発を買います。安息日に癒しを行うなど、当時の宗教者たちには我慢できない事でした。そこでイエスは闘いました。逃げませんでした。自分が狙われている事は分かりますよね。それでも逃げませんでした。と言いますと、私はイエスも、孤独のスパイラルに陥られたのではないかと思います。イエスを助ける人は誰も居ません。イエスは人を助けましたが、そのイエスを助ける人は誰も居ません。福音書でも、お弟子たちは頼りにならない姿が描かれています。信仰の薄い者たちよとイエスに叱られたり、全く頼りになりません。益々孤独な思いになったでしょう。遂に、十字架に架けられて殺されてしまいます。

 

 

 

 その最後の場面で、十字架の上で、ご存知の通り「エロイ エロイ レマ サバクタニ」と叫ばれました。神からも見捨てられたという究極の孤独、つまり孤独のスパイラルの究極の、「孤独死」を遂げたのです。ガリラヤの貧しい人々、病人、寡婦などの孤独な思いを、ご自身が担った孤独死でした。その人々が心の中で叫ぶ叫びを、イエスは十字架の上で、神に向かって叫んだのです。神の子として、父なる神に叫んだのです。知らない神にでは在りません。神である自分が神に向かって叫ぶしかない、そこでの出来事です。神に届く叫びは神の叫びです。神から神へ、これなら通じるはずです。

 

 

イエスの十字架の死が、それで終わりではなく、イエスの最後の神への叫びこそ、私たちの希望の源の出来事だったのです。私たちの孤独のスパイラルを担って下さった、あの叫びだったと信じます。十字架の死の場面で、神に問う、神に叫ぶ、それは、十字架の死が最後ではない。そこから希望を絞り出して下さった。神の子以外には出来ない叫び、私たちの希望となる叫びだったのです。

アーメン