「荒野の試練」             2019年6月16日  

 

ルカ1:9~13     招きの詞 出エジプト1:8~14

 

 

 

 皆さま、お早うございます。松岡澄子さんを覚えて、少し黙祷をしたいと思います。松岡姉妹は思いがけず、急に天に召されました。私が1月に入院した時に、同じ階に彼女も入院していて、お互いに驚きました、その時既にガンに罹って居られたのでしょうが、判らなったのです。退院して来られて3月3日には、教会組織の願いで城西教会を訪ねましたが、その時にもご一緒下さいました。たぶん、その時が私たちとご一緒された最後の時だと思います。彼女は本当に弱い人々、お年寄りの問題を察知されて、社会福祉法人徒然を立ち上げられ、それこそ行政などと厳しいやり取りをされたと思います。闘いつつ生き貫いて下さったと思います。

 

 

 

 亡くなられる前から、今朝の奨励を「荒野の試練」と決めていました。彼女も含めて世の多くの人々が、この世で生きる中で戦っておられる事をお話しようと思ったからです。祈祷会でヨブ記を先週読み終えましたが、ヨブも何故自分がこんなひどい状況になったのか、神様に問い続けました。この問題を今朝は置いて、荒野の試練は旧約に出エジプト記として出て来ます。ヤコブの末息子ヨセフが数奇な運命でエジプトの宰相になり、飢饉の中でヤコブ一族がエジプトに寄留するになった出来事がありました。長い年月が経ち、ヨセフの事を知らないエジプト人の世代になって、イスラエルの民が過酷な労働を強いられる状況を主なる神が憂慮されて、カナンの地に再び連れ戻された、イスラエルの民としての超大事件です。エジプトからカナンまでは地理的には40年も掛るはずがない距離です。幼子も含めた民族の大移動とは言え、余りにも長い試練の旅でした。途中で、多くの者たちは耐えられなくなって、こんな事ならエジプトに居た時の方が未だ良かったとモーセに反抗もします。それはイスラエル民族がまとまる為に受けた試練とも言えますし、そこで律法を与えられました。荒野そのものが試練です。食料、水が無い、昼は厳しい太陽、夜は放射冷却で厳しい寒さ、荒れ地で変化に乏しい自然です。生きるのが精一杯の地をトボトボと歩いて進む旅です。世代交代も起こります。そして何とかカナンに辿り着きます。

 

 

 

イエスの場合は荒野が試練というよりも、サタンが仕掛ける試練でした。ヨブ記ではサタンは神を誘惑しました。サタンが神の前に現われると、「お前は何処から来たのか」と尋ねて、ヨブの様な神に忠実な人間は居ないだろうと言われます。するとサタンはヨブを少し痛い目に遭わせると直ぐにあなたを呪いますよ、試して御覧なさいと神を誘惑するのです。皆さんはサタンをどう思われますか。神が創られたのでしょうか。サタンは人の様な形の無い様に思われます。人の不幸を喜び、人を貶めようとする思い、考え方、観念、概念、哲学、思想などをサタンだと思います。個別の実体が無いのです。少し前まで世界を支配している資本主義がありました。産業革命で発達しました。これに対して同じイギリスで共産主義が生まれました。そして資本主義と共産主義はお互いをサタンだと言いあっていました。冷戦時代などありました。今はその様な形での資本主義も共産主義も表には現われていません。勿論現在も共産主義を体制とする国々はあります。実態は共産主義というよりも一党独裁です。その国も経済は違います。今世界を動かしているのは市場原理主義マーケトファンダメンタリズムという経済哲学です。市場に上手く乗れば成功ですし、それは労働を搾取して利益を得る形式とは全く違います。株式という掴みにくいシステムです。利益は株主に配分され、株価が上がったり下がったりしてお金がドンドン世界中を回っています。今は労働者も家庭の主婦も株を売買しますので昔のように資本家の線引きが難しく、現実には富裕層と貧困層との格差の時代だと思います。こんな事が礼拝のメッセージでは有りませんが、やはり世界を動かしているのはどんな力なのかはよく注意しておく必要が在ると思います。

 

 

 

 そこで私たちキリスト者が向かうべきは、その様な世界の動向の中で生まれた犠牲者の方々にどの様に向き合えば良いのかという事だと思います。教会、キリスト教といえども、そこを動かす大きな原理は無いと私は思っています。では全くイエスはその様な事に対して何も教えられなかったのでしょうか。いいえ、イエスが教えて下さった最も大事な掟を思い出します。先ず「神を大事にしなさい」と言われた事と、「自分の様にあなたの隣り人を大事にしなさい」と言われました。イエスが教えて下さった中で、世の犠牲者の一人ひとりにどうしたら良いのかという時に、立ち向かえる教えだと思います。「あなたの隣り人を大事にしなさい」とイエスが言われた事だと思います。その言葉は分かる気がしますが、しかし実際にそれを実行するとか、その様に生きるという事になると私の小さな力や能力ではとても出来ませんと、つい思ってしまいます。信仰も能力も志も弱く小さいと思いがちです。私たちに出来ない事をイエスは従えと言われたのでしょうか。できなければそれで良いさ、となるのでしょうか。イエスは理想的な事を言って、実行は私が知る事ではない、後は君たちの問題だと言われるのでしょうか。

 

 

 

 イエスの十字架が其処に関わっていると思います。自分の命を懸けて隣人を大事にする事を貫かれたが故に起った十字架の出来事です。そのイエスに励まされて、背中を押されて、何か小さな事に私の小さな手が差し出される様にと促しておられるのではないでしょうか。私も一緒に居るから、私も一緒に祈っている、私も一緒に働いている、あなたの苦労を一緒に担っているよと語りかけて居て下さると信じます。ご自分が責任を取らない形で、ただの理想的な事を言われたのではありません。ご自分の言葉に責任を取られたのです。神殿宗教者たちや律法学者たちが、イエスは神を冒涜する奴だ、生かしておいては危険だ、と殺したのです。それ程にイエスはご自分の言葉と信念に責任を貫いて下さった。弱く小さい隣人を大事にしなさい、私もそうするから、と仰って下さった出来事が十字架の出来事だと信じます。それは過去の出来事だと言うのではなくて、今も復活されたイエスはガリラヤに戻って、そこで何とか生きている極貧の人々プトーコイの人々と共に生きて下さる、そこに私たちが隣人を大事にして生きる事が出来る、希望を持つ事が出来るのではないでしょうか。私たちには出来ないと投げ捨てるのではなくて、私と一緒に歩みなさいと励まして居て下さいます。

 

 

 先ほどの聖書で、サタンがあらゆる試みをしました、イエスが試練に負けなかったので尻尾を巻いて消えてしまいました。その様なイエスの力により頼みながら、私たちは荒野の試練を生き貫くのではないでしょうか。隣人を大事にして生き貫きなさい、とご自分の命を懸けて私たちを励まして居られます。イエス・キリスト 感謝 アーメン