「ガリラヤからは預言者は出ない」       2020年2月16日

 

 ヨハネ7:48~52  招きの詞 マタイ4:12~16

 

 

 

 皆さま、お早うございます。雨風の中をよく来て下さって、本当に有り難く思います。明日からはもっとひどくなるそうですから、どうぞお気を付け下さい。玄関の外に今朝の説教の題を書いていますが、週報は「ガリラヤからは預言者は出ない」としています。皆さまにはこの題でも何とか通じると思いますが、外を通る方には分からないと思い、「あまりの『不平等』という『不条理』」としました。これは中村哲先生の言葉です。或る人が「どうしてアフガニスタンに残ってこんな大事業をするのですか」と聞いて、それに対する中村先生が、「あまりの不平等という不条理に対する復讐でもある」と言われたそうです。アフガニスタンが欧米、その他の地域に比べて余りの不平等の中で人々が生きている事に対して闘わなければいけないと思われたのでしょう。それを現す言葉だと思います。

 

 

 

 これに対する聖書の言葉を探して、この「ガリラヤからは預言者は出ない」を選んだのです。不平等の象徴として、私は「ガリラヤ」を取り上げて来ました。この聖書の言葉は、地域差別を現しています。昔からバビロンやアッシリヤからも攻められて占領された所です。「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる様になっていました。このマタイの言葉はイザヤ書8:23からの言葉です。「辺境の地ガリラヤ」と言われる事も在ります。ユダヤ人にとって、ガリラヤはユダヤ教にとって、どうでも良い、大事な地域ではないのです。地域を差別する言葉です。今朝はこの「差別」をしっかり考えて見たいのです。この前、犬養先生も部キ連での事を話されましたが、今また、部落差別が酷くなっています。部落差別教育は、昔、私も学校で担当していたのですが、30年程前から「部落問題はもう終わった」と言って、段々人権教育の方向に変わって来ました。「ハラスメント」という言葉もその頃から出て来ます。

 

 

 

 その人権教育が今は更に変わって、文科省が「道徳教育」を推し進めています。ミッションスクールでは、聖書の時間とかキリスト教教育をして来たのですが、その時間を道徳教育に変える様にとの圧力が掛っています。部落問題は無くなったように感じられるのですが、現在はネット上で大暴れをしているのです。例えば部落の地域を現す「地名総鑑」などは自由に見れる様になっているのです。個人の住所から名前まで、見たい放題だそうです。ネットで見ようとすると、よく見られる事柄が上位に掲載される仕組みで、部落差別をするものをよく見れるように、それを閲覧する回数を上げるために、自動的にそれを閲覧するプログラムまで作っているそうです。真面目に部落差別に対する意見を見ることは、ず~っと下の方で中々出来難いそうです。悪意が表面にはっきり現われているのです。

 

 

 

 昨日、地方連合の「『どげんスッと?』宣教協力」という研修会が在りましたが、自分の事を申してすみませんが、私は異邦人の様な感じでした。私の意識がおかしいのでしょう。皆で協力して宣教するための研修会なのですが、殆ど内向きの議論なのです。今、教会は人も少なくなって小さくなっている、ではどうしたら良いかという話し合いなのです。部落問題など外の問題、或は先日の「反ヤスクニ」の学びや天皇制や憲法改定などいろんな大きな問題が、外では吹き荒れています。経済問題でも非正規社員がどんどん増えて、教会に来れる人たちは少なくなり、献金も出来ない状況になっている状況です。この様な外の問題に一緒にどの様に取り組むかの問題は全然出て来ませんでした。

 

 

 

 教会の問題として、確かに人数が減っている事などは大きな問題です。同時に、社会で多くの人々が困っている問題をどうにかして担うという意識や姿勢が必要だと思っています。部落問題も憲法改定の問題も非正規社員の問題、若者や中高年の問題、小学生の貧困問題にしても、教会として協力してどの様に取り組むかの話は無かったのです。問題になりませんでした。私はやはりその様な問題も大きな問題として教会も担うべきだと思っています。プログラム最後の各分科会の報告で、西村兄弟が「中村哲先生の様な外での働き」の必要性を話されたので少しは救われた感じがしたのですが、教会も自己目的というのですか、それを神が喜ぶという意識になっているのは問題ではないかと思います。説教では何を語っているのか、内向きで教会に慣れている人々向きの話ではないかと危惧しています。

 

 

 

 先日、田中聞多兄が、自分の話の時は、皆さんの関心が在る事を話したいと言われましたが、私も皆さまから課題を受けて語れる事は語って行きたいと思います。昨年、教会組織を致しましてまだ歩み出したばかりですが、これからどんな教会を目指すのか、皆で話し合って皆で担って行こうという姿勢をぜひ持ちたいと願います。外の問題だけが私たちの課題だというわけでは、勿論ありません。聖書をどう読むか、イエスからどの様に励まされ生きていくかは、最も大事な事ではあります。でもイエス自身が、ガリラヤという異邦人、ユダヤ教の外の世界に出かけられました。異邦人の世界に出かけられたのです。ガリラヤ以外にも、仲が悪いサマリアにも行かれましたし、シリア・フェニキアにも出かけて、婦人の娘を救われる事もされました。イエスはこの様にユダヤ教から見ると、異邦人の村々町々を回っています。それこそ本来のユヂャ教そのものの問題ですが、エルサレムだけではなくて、外でどうなっているかを訪ねて行かれました。

 

 

 

 皆さまよくご存じの「良きサマリア人」の話を、山浦先生は、半殺しの目に遭った人をイエスに譬えた短編を書いています。ユダヤ教にとって、メインの場所や人ではなくて、イエスはそこから外れた所で下積みになっている人々を訪ねて、病人を癒し人々を励まし希望を与えています。その「異邦人のガリラヤからは預言者は出ない」というのです。ユダヤ教から見て、本筋ではないものへの偏見が在ったのです。でもイエスはそちらを訪ね歩きました。エルサレムには神殿が在ります。ユダヤ教の大本山です。そのエルサレムに、ガリラヤ、サマリアなど差別されている人々の思いを担って、闘うために行きました。先程の交読文の詩編でも、旧約の神は元々「神は憐れみ深い方」なのです。それがいつの間にか、神殿が大事、律法が大事、祭司たちの立場が大事となってしまいました。歴史的にはキリスト教会もそうなりました。宗教改革が起こりました。しかし、今やプロテスタントも教会そのものが目的化した状況になっていると思えます。これをイエスが歩まれた道筋から見る限り、教会はしっかり反省しなければならないと信じます。

 

 

 

教会が小さく弱くなっているだけではないと思います。下積みになっている人々を掘り起こし、父なる神に伝えたイエスだと思います。神の子である自分が伝えなければ、誰がきちんと伝える事が出来るかと、ご自分の課題として受けて下さいました。弱く小さくされた人々に限りなく優しい眼差しを向けながら、その状況を作り出している、政治や宗教その他の力と闘って下さいました。山浦先生の訳に、「その人たちこそ神の懐に抱かれる」という言葉が在ります。同時に、私たちも「無関心」という問題をいつも意識しなければならないと思います。弱く小さくされた方々の問題の為に祈り、少しでその課題を担う、一つの教会で出来なければ、互いに協力して担う、その姿勢を今問われていると思っています。中村哲先生が「あまりにも不平等という不条理に復讐したい」という信念に従って生きた姿は、当にイエスが私たちに示された生き方だと信じて、イエスご自身の生き様を、同時にその福音を受け直したいと願っています。イエス・キリストの御業 アーメン 感謝