「信仰告白と洗礼」バプテストの特徴Ⅳ   2019年12月1日

 

  第一コリント12:12~13 

           招きの詞第二コリント1:23~24

 

 

 

 皆さま、お早うございます。ローソクが一本灯って、クリスマスアドベント第1週です。時間が経つのが早いですね。今日はバプテスト教会の特徴四回目です。私たちは信仰告白をしてからの洗礼です。これはカトリックが幼児洗礼をしますが、それに対して、それは意味がない事だと信じています。どうして幼児洗礼は意味が無いのでしょうか。少し話が難しくなるかもしれないので、申し訳ありません。カトリックは幼児も一人の人間と考えるのです。人間として何を考えるか、何を信じるかは問題ではなく、人間として居るからには、法王がその幼児に変わって、神を信じているから、その下に居る幼児も信仰を持っているのと同じだと考えるのでしょうか。幼児も人として存在していると考える、つまりカトリックの神学は「存在論」に基づいているのです。先ず、カトリックという言葉は、普遍主義という、世界の何処に行っても変わらない、みな同じだという信仰です。例えば、数学でY=Ax+Bx+Cの方程式は月の上でも成り立ちます。火星でも海の底でも富士山の頂上でも成り立ちます。こういうのが普遍主義、どこでも変わらない。カトリックの信仰は法王が人類の代表として神に向かっているので、人は何処に居ても同じですよと考えるのです。全ての人は法王の下に居るのです。

 

 

 

 しかし、実際の物事は、場所に依って違います。月の上での体重は地球上での6分の1です。地球上で2m跳べる人は月の上では12m跳べます。人も人種が違います。植物も動物も違います。針葉樹も在り広葉樹も在ります。象もシロクマも居る所が違います。象もインドとアフリカでは違います。背の高い人種、背の低い人種がいます。世界中、どこでも同じではありません。住んでる所でいろいろ違うという事を人間は感じるようになりました。アフリカの砂漠地帯と北極とでは生活が全く違います。食べる物も違います。考え方、生き方が違う。人はその様に違いに段々気が付く様になりました。神は天に居られますが、創世記に依れば、神はその命の息を人間に吹き込み、その命を私たちは受けています。或は、神の姿に似せて人間を創られたと書かれています。作った神が元々ですから、少し難しく言えば、神の本質を受けた、神に似た様な存在なのです。これを存在の類比と言います。この様にカトリックでは、人間の存在そのものに意味がある、神の存在と人間の存在は類比しているのです。

 

 

 

 ところが、1517年でした、ルターが宗教改革を起こしました。しかし、その前から、イタリアで始まったルネッサンスから、人は段々、自分、つまり古代のギリシア・ローマの様に人間に注目するようになります。中世期はカトリックが支配する世界で、時に暗黒時代とも言われます。それが次第に人間の力、能力に目覚めるようになります。近代になると哲学でも、デカルトが「私の存在の根拠は何か?」と考え、「その様に考えているからこそ、自分の存在が在る」という結論に至ります。それを「我、思う故に、我在り Cigito ergo sum」と言います。もう一人フランスの哲学者パスカルも「パンセ Pensee」を書きますが、これは「考え」という意味です。この様に人間が考える事に意味が在る、つまり人間中心主義に変わりました。宗教改革も人間、人類と言うより、或る地方に住んで居る或る人々を中心に考えます。その人が直接、聖書を読む、直接神に接する、私が直接神に祈る事が出来ると考えたのです。

 

 

 

 それが19世紀になると、段々、人間中心主義が強くなり、信仰も人間が自由に信仰できるのだと思うようになります。これを自由主義神学と言います。人間は、元々自由に何でも出来るのだと言うのです。人間の能力を誇る様になります。しかし歴史を見ますと、人間は素晴らしいと言いながら、力が在ると言いながら、物凄い悲劇を起こしています。理性が在り、能力が在ると言うけれど、実際には何をしているのかと考えざるを得ない状況になります。少し難しい言葉ですが、神学では「弁証法神学」が生まれたのです。バルトその他の神学者は、「神と人間は全く違う。断絶している」と考えたのです。人間がいくら上を目指して精進しても、神にはなれない、神には届かないと考えたのです。神と人間は絶対に他者だと考えた。だから人間は自由に神を信仰できるわけではないのです。自分が神を信じていると思っているだけで、本当の神を信じているか、分からないのです。本当の信仰は、神の方から頂くものだと考えます。

 

 

 

 クリスマスの出来事が現している様に、断絶を越えて神が人間の方に近づいて来て下さるしかないのです。神が近づいて来られて、人間に語りかけて下さらなければ、人間は神と結びつく事が出来ないのです。神学の話で申し訳ありませんが、これはカルビンの予定説に近いので、新カルビにズムとも言われます。人間は自由に何でも出来ると思っていたし、神を信じていると思っているかもしれないけど、それは貴方が考えた神ではないのかと問われました。こちらの神とあちらの神が戦ったりもします。人間もそれに従って殺し合います。私たちが信じている神は本物の神なのか、反省しなければならなくなったのです。同時に、神と人間は違うけれども、神が居て下さらなければ、人間はとんでもないことを仕出かす存在なのです。アダムとイヴの子どものカインは弟アベルを殺してしまいます。神と人間は違うけれど、神が私たちと共に居て下さらなければ、人間は真に生きる事が出来ないと考えて、弁証法神学が生まれました。

 

 

 

 この神学は「実存主義神学」とも言われます。私たちはいま、何処に立っていて、何を大事だと考えて生きているのか、或はこれから何処へ向かおうとしているのか、を意識した生き方です。人間は何処かに向かって動く、或は人を動かす、だから自分は何処に居て、誰と一緒に生きようとしているのか考える事を大事にするのです。実は神も三一の神、父・子・聖霊の神と考えて、この三つの働き方で私たちに一つとして迫って来られる神の三一論が生まれました。父と子の間に通う聖霊、この三つが一つとして働く動きの中に、子なる神イエスキリストと私たちの関係が神の三つの関係の中に包まれ、私たち人間の関係も包まれる、そこに関係の類比という神学が生まれたのです。難しくなって、すみません。つまり私たち人間はただ存在しているのではなく、お互いの関係の中で生きている、別の言い方をしますと、全く違う、絶対他者の神と人間が生きる事との関係が大事なのです。

 

 

 

 神を私たちが信じる事が出来るのは、神からの恵みなのです。「あなた方が私を選んだのではなく、私があなた方を選んだのだ」という聖書の言葉が在ります様に、神が「私を信じなさい」と迫って下さるから、私たちは神を信じる事が出来るのです。私たちの信仰は神からの働きに依るのです。信仰告白は神からの恵みなのです。その事を現実には聖書から学ぶのです。そこに「聖書主義=福音主義」が在るのです。信仰告白が神の恵みで在るなら、それに対して、私たちには感謝がなければなりません。洗礼はその私たちの感謝の告白なのです。幼児洗礼にはその感謝はないでしょう。私たちが幼児洗礼を否定する根拠です。神の恵みを意識した信仰告白と感謝を表す洗礼が、バプテストの基本の一つです。