イエスの十字架とペトロの信仰」   

                                                                                   2019年9月15日 

 

使徒言行録3:13~20 招きの詞ペトロ第一2:23~25

 

 

 

 皆さま、お早うございます。台風15号の置き土産で、千葉県では停電がまだ解消してない地域が有るとの事で、老人ホームではご高齢の方々が亡くなっておられます。倒木がすごくて電柱に重なったりして、予想以上に手間が掛かっている様です。国ももっと早くから援助活動を開始すべきだったと思います。自分たちの事が先ず大事という印象です。発電という事で思い出しましたが、大規模太陽光発電施設で困る事は何だかお分かりでしょうか。それは雑草だそうです。中には灌木がパネルを壊したりするそうです。太陽が良く当たる所だから、雑草の成長も早いそうで、手間が掛かるそうです。

 

 

 

この頃、聖書の訳に付いて、正確に理解したいと願ってお話していますが、イエスの十字架の問題が一番大きいと思います。招きの詞でペトロの手紙第一を読んで頂きました。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。」(24節)という言葉になっていますが、これが正確な訳ではないのです。このままですと、確かに十字架は罪の贖いの為と読めるのですが。この「十字架」という言葉は、元は「木、杭」という意味の言葉です。昔からへブル人の死刑は十字架家ではなく、一本棒の杭に縛り付けるものでした。それを十字架と訳しているのですが、岩波版聖書では「彼は自ら私たちの罪を、自分の体のうちに、木の上に運び上げた」(小林稔訳)です。この「罪」は複数で、様々な律法違反の罪で、パウロが言う単数の原罪の言葉ではありません。この言葉は使徒言行録5:30では、「わたしたちの先祖の神は、あなたがたがにつけて殺したイエスを復活させられました」とちゃんと「木」と訳しています。こちらを訳した方は「木」と訳し、ペトロ第一を訳した方は「十字架」と訳しているのです。ペトロの手紙はペトロが書いたものだとは、今は学者たちの間では信じられていません。

 

 

 

 ペトロ第一の手紙のギリシア語は非常に流暢だそうですが、ペトロは元々、ガリラヤ湖の漁師でしたから、普段はヘブル語のガリラヤ方言のアラム語を話していたでしょう。ギリシア語には堪能ではなかったと思われます。マルコ福音書のギリシア語も上手ではないと言われています。ペトロは十字架という言葉を知らなかったのだろうかとも思われますが、使徒言行録4:10をご覧下さい。「あなたがたもイスラエルの民全体も知って頂きたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるおのです」と語っています。ペトロはイエスが大祭司の屋敷の中庭で、鶏が二度鳴く前に三度知らないと言うと、イエスに予告された通りに三度知らないと言った途端に、鶏が二度目に鳴いたので、「いきなり、泣き出した」(マルコ)、「外に出て、激しく泣いた」(マタイ)のですが、その後、どうしたでしょうか。十字架の刑場に行かなかったでしょうか。私は見に行ったと思います。ペトロが居た事は何処にも書かれていません。

 

 

 

 しかし使徒言行録の3:13以下をもう一度読みます。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです」と語っているのは、ピラトの裁判の場面をよく知っています。ペトロもその場面に居たのだと思われます。さらに19節からは「ところで兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神は全ての予言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」と語っています。

 

この罪はもちろん複数形で、律法違反の様々な罪が消し去られるようにと語っています。ですからペトロにはパウロの様に「原罪」と言いますか、単数形で罪そのもの(ハマルティア)は出て来ません。「様々な罪が消し去られる様に」という言い方をしています。イエスを私たちが殺したのだけど、自分もイエスを裏切ったという気持ちでしょう。もう一度同じ所ですが、18節「しかし、神はすべての予言者の口を通して予告しておられた未シアノ苦しみを、このようにして実現なさいました」とイエスの十字架をすべての預言者の口を通して、例えばイザヤ書に「苦難の僕」などが在りますが、「預言者たちが予告していた、メシアの苦しみ」という言い方をしています。それが何のためなのかは、此処には書かれていないのです。その意味でペトロが持つイエスの十字架に対する思いをどんな風に受け止めたら良いのか、今でもパッと言い難いです。すみませんが、もう一度使徒言行録4章10~12節を読みたいと思います。さっき読んだ所です。

 

 

 

「あなたがたもイスラエル全体も知って頂きたい。この人が良くなって、皆さんの前にたっているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」さらに3章20節をもう一度読んで、ペトロがイエスに対して期待している言葉を受けたいと思います。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって消えておられた、メシアであるイエスを遣わして下さるのです。」主のもとおから慰めの時が来るというのは、終末の時が来るという意味の様です。「主なる神は私たちの為に、メシアであるイエスを遣わしてくださる」。つまり私たちがどの様な状況に在っても、メシアなるイエスを私たちの所に遣わして下さる、これがペトロの信仰、希望だと信じます。「私たちの所に、イエスが来て下さるのだ」、実際、復活した後、自分の所に来て下さり、自分は復活されたイエスに出会った!という歓びこそ、ペトロの信仰を支えているのが十字架の出来事なのです。ペトロはこの十字架の出来事を伝える旅をしたのでした。アーメン