「霊の導きに従ってまた前進しましょう」 

                 2020年年7月5日

 

ガラテヤ5:22~26  招きの詞 第一テサロニケ5:9~11

 

 

 

 皆さま、お早うございます。お変わりございませんか。今、読んで頂いたガラテヤ5:26、「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」という言葉は、別に直接、皆さんに言うつもりではなく、私自身に、自戒を込めて読んでいるつもりです。パウロがこの様に言っているのは、ガラテヤ教会の問題、つまり、初代教会の大きな問題が在ったからです。ガラテヤは今のトルコに在る地方の名前です。都市の名前では在りません。聖書巻末地図の7か8をご覧下さい。パウロは伝道旅行で2度、ガラテヤ地方に出かけました。ガラテヤの人々はユダヤ人ではない異邦人です。その異邦人キリスト者がユダヤ教の律法にどのように対処したら良いかという問題です。

 

 

 

ユダヤ人キリスト者は、律法を重んじました。中でも特に、割礼と安息日を守る事を強く主張しました。そこで律法に詳しくない異邦人キリスト者との間に、よくトラブルが起こったのです。テサロニケ教会を訪ねたパウロもこのユダヤ人キリスト者の迫害に遭って、アテネ、コリントに逃げました。これはその他の各地の教会に共通する問題でも在ったのです。ガラテヤ4章で、パウロは「律法の下にいたいと思っている人たち」(21節)と呼びかけて、旧約時代の事を語り、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。」(5章1節)と言います。そして、割礼を受ける事を主張したユダヤ人キリスト者に対して、「もし割礼を受けるなら、

 

あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」と続けます。

 

 

 

更に5章13節で、「兄弟たち、あなたがたは自由を得るために召し出されたのです。」と盲従的な律法遵守から解放されていることを言います。続けて、「ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とはせず、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(14節)と、イエスが教えた、最も大事な掟を語ります。

 

 

 

 つまり、ガリラヤ地方の教会、つまり、初代教会全体には律法の問題、特に割礼と安息日を守るというユダヤ教の律法を重んじるユダヤ人キリスト者との衝突が大きな問題だったのです。今、こののぞみ教会で、私が「罪の赦しのための十字架」を語らないことで、少々、一体感、霊において共に、という事が問題になっていると自覚しています。イエス・キリストの福音を語る者としての私自身が、自説に「うぬぼれて、挑んだりする」ことは控えなければならないと思っています。それは私の自説を曲げて、迎合するという事ではありません。同時に、皆さんに、罪の赦しの十字架の信仰から離れなさいと申し上げることではありませんし、そう申しても受け入れられないことは、承知しています。妥協点は簡単には見つかりませんし、妥協しろ!ということではないと思います。

 

 

 

 でもそれは、何でも良いという、いい加減な姿勢ではないと思います。パウロの「キリストは自由を得させる」という言葉から、現在の欧米の自由主義につながっていると思います。しかし先日、永山神学生が語ってくれたように、自由、平等、博愛と言うだけでは差別は無くなりません。格差が拡大し広がり深まっているという現実が、いま全世界の前に壁となって立ちはだかっています。今ののぞみ教会の状況を考えますと、キリストの福音の受け止め方で、一つになることは非常に難しく、大きな問題になっています。

 

 

 

 では、どうするのか。先ず、キリストの福音のメッセ―ジを語る者が考えなければなりません。どなたからか指摘されましたが、メッセ―ジに用いる聖書の箇所の偏りを避ける努力を先ず、したいと思い、今朝の箇所にしました。私自身がうぬぼれないで、目を覚ましていなければなりません。第一テサロニケ5章5節以下を、ご一緒に読みましょう。「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、私たちのために死なれました。それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」

 

 

 

 更にまた、ガラテヤ5章22節以下もご一緒に読みましょう。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」

 霊は目に見えません。ですから、或る人が「私は霊を受けた」と感じ、信じるなら、周りの人たちには分からない事ですから、否定はできません。そこで、今朝は、私たち皆に共通する「霊」としてもう一度、第一テサロニケ5章10、11節の言葉を受けたいと思います。「主は、わたしたちのために死なれました。それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」この言葉を共に受け、霊の導きを祈りましょう。

 

   パウロ アーメン 主イエス・キリスト アーメン 感謝