「バプテストの教会」  2018年7月29日

 

  マタイ18:18~20   招きの詞マルコ12:28~31

 

 

 

 皆さん、お早うございます。本当に暑い1週間でしたが、お元気でいらっしゃいますか。少しでも暑さに耐えて頑張らなければと思うのですが、でも疲れてしまって病気になられないようにお気を付け下さい。台風も来るようでいつもとは逆に東から来るんですね。今日の夕方頃から風雨共に強まりますので気をつけて下さい。特に被災地で復旧に向けて働いておられる方々が守られますようにと祈りたいと思います。私たちは教会になると決めていますが、その教会はバプテストの教会です。今もバプテストの城西教会の伝道所です。ですからバプテストの教会とはどんな教会なのか、どんな特徴があるのか、何を大事にしているのか、少しお話をしてみたいと思います。今日は歴史的な事は話しませんが、元々の事を話したいと思います。バプテストと言いますが、これはバプテスマを大事にする人々の事を言います。バプテスマはご存知のバプテスマのヨハネを抜きにして語れません。そしてヨルダン川で罪の赦しをする水に沈めるというのはユダヤ教の伝統の中には有りません。いつ頃から始まったのかもよく分かりません。多分ヨハネを中心にするヨハネ教団というのが有ったのでしょう。他にも律法を大事にするファリサイ派が有ったり、神殿を中心にするサドカイ派などが有りました。罪の赦しを受けるために神殿に献げものをしなさいとモーセの律法に有りました。水に沈めの儀式をするのは律法に有りません。

 

 

 

 イエスもバプテスマを受けられました。マタイ、マルコ、ルカに出て来ます。ヨハネのバプテスマはユダヤ教から見れば革新的な事だと思われます。その新しさをイエスは受けられたと思います。今のバプテスト教会もこのイエスの気持ちを大事にすると思います。大事なのは水に沈めるという事で、カトリックが滴礼、多くのプロテスタントでもそうですが、これは本当の洗礼ではないというのがバプテスト主義です。これでないといけないのか、簡単に決められませんが、もう一つバプテスト教会が大事にしているのは「幼児洗礼」ではない事です。自覚ある人がイエスの助けを信じる事を告白した上で浸礼を受けるのがバプテストです。プロテスタントはカトリックに対して生まれました。カトリックに対して一番反対側に在るのがバプテストだと考える人も居ます.滴礼ではなく浸礼、幼児洗礼ではなく自覚した信仰告白を伴う事ですが、カトリックという言葉の意味です。

 

 

 

 カトリックとは「普遍的」、どこでも同じという意味です。これを算数に例えられます。ここで1+1=2は富士山の頂上でも、月の上でも同じです。ですが物理的には違います。ここでは100℃でご飯を炊きますが、富士山頂では80℃位ですか、100℃になりません。ここで1グラム+1グラム=2グラムですが、月の上では4分の1程の重さになります。場所に依って変わるものと変わらない、どこでも同じものも有ります。法王が受けた信仰が世界中どこでも通用して、今朝のミサはローマでも糸島でも同じ聖書の個所です。プロテスタントと言っても広いので、世界中同じ聖書の個所で説教する派もありますが、バプテスト教会は全部バラバラです。つまり「各個教会主義」を言います。

 

 

 

 教会は一つずつ違うのです。カトリックはみんな同じです。人間にも個性があり、その個性を大事にします。地域の風土、台風が来るような気候に対して乾燥地帯の風土は違います。風土とか歴史の中で、イエスの福音の受け方は変わって来る、という考え方です。日本でも北海道とここではかなり違います。各教会の独自性を認める、これもバプテスト教会です。同時に、教会同志の上下関係を認めません。またその集団の本部の様な、そこから各教会に指令する様な関係も認めません。バプテスト連盟は、各教会の上に在るのではなく、中心として調整の役割、参加教会の意思をまとめる役をします。その意思は大会で決めます。そうしますと教会の中でも上下関係は有りません。これを会衆主義と言います。ここに集まって下さる皆さんの気持ちが大事で、皆で決めましょうという事です。ですからのぞみ伝道所の信仰告白にも「民主的な教会の運営」としています。同時に、私は牧師的な働きをしていますが、実はみんな誰でもその役割は果たせると考えます。私は皆さんから委託されてこの働きをしていますが、私の聖書理解がすべてでは有りません。万民祭司と言いますが、牧師は上に立つ者では決してありません。ですから誰でもなれます。

 

 

 

 今まで申しました様に、バプテスマの事、各個教会主義、ですが、一番最後に「聖書が大事」という事です。カトリックにルターが主張したのが聖書の事です。ラテン語訳の聖書しか認めなかったカトリックに対して、皆が分かるようにとドイツ語に訳しました。世界中のいろんな言葉に訳され、日本語にも訳されましたが、日本語訳も様々です。とにかく聖書が大事だとバプテストは考えます。「浸礼主義」も聖書からです。牧師ではなく聖書です。具体的には少し聖書や神学、語学を学んだ人が少しは聖書に詳しいからと神学校を出た人を牧師に招きますが、聖書の読み方が深いとか正しいとか、限りません。皆さん方にも別の読み方も有るでしょうから、礼拝後に応答をするのは皆さんの聖書の読み方をみんなで共有したいからです。私は牧師の働きを委託されたので、いまその立場に有りますが、これは上下の関係では決して有りません。これをバプテスト教会は大事にしていますので、皆さんが直接聖書を読んで下さい。聖書に親しんで下さい。

 

 

 私が話した事以上に聖書は広く深いです。皆さんが直接に聖書を読み親しんで、イエスに出会って頂きたい。先程の讃美歌でも、イエスに出会うのは「野辺にてか、幕屋にてか」とありましたが、イエスに出会うのは何処と限りません。誰が出会うとは限りません。皆さんお一人お一人が聖書を読んで下さる、そこから始まるのです。教会は人が集まる、「二人または三人がわたしの名に依って集まるところに」と集まる人についての区別は有りませんし、資格も有りません。誰でも良いのです。二人または三人がイエスのみ名で集まってイエスから教えて頂こう、イエスを讃美しようという其処から教会が始まるというのがバプテスト教会の根底にあると、私は思っています。「二人または三人が集まるところには、私もその中にいる」と言われていますが、私はこの訳では駄目だと思います。「その中に私もいる」という「その中」は「そこに」という言葉ですし、「わたしも居る」ではなくて、「わたし居る」のです。二人または三人と並ぶような形でわたしも居るよという様な事では無くて、「其処に私が居る」、その集いの主はイエスだという、イエスが導いて下さる主として「そこにわたしが居る」という、誰でもイエスに名に依って集まるなら、「そこにわたしが居て、その群れを導くよ。」というイエスのお気持ちです。もう少し強く言えば、イエスのお覚悟なのです。「わたしも居る」ではなく「主なるイエスがここに居る」という力強い言葉だと私は受けています。それを大事にしているのが、バプテスト教会だと私は思います。法王から降って来る聖書の読み方ではなく、私たちが集まって、イエスの名に依って祈ったり聖書を読んだりする所に「わたしが居る」、「キリストが居る」とイエスは言われます。「私が主だよ。みんなを導く者だよ、私が牧者だよ」と強い響きをもった言葉だと思います。

イエス・キリスト アーメン