「天の国は近づいた」        2021年2月14日

 

  マタイ10:5~10     招きの詞ルカ13:18~21

 

 

 

 皆さま、お早うございます。西村恵子姉、西嶋知子姉、梶原敬介兄、芳野広子姉、松井強兄、三島真美姉、猪城悦子姉、西村義人兄、亀井雅子姉、お元気でいらっしゃいましたか。今朝はこの方々が礼拝に集って下さいました。また、大神先生、摂子さん、加藤先生、愛子さん、望君、光さん、田中聞多さん、桂子さん、篠崎由美子さん、賀来正明君、藤島要子さん、奥村良男さん、すず子さんも見ていて下さるかもしれません。お早うございます。お元気にしておられますか。昨日、福岡地方連合の研修会が在りました。「どげんすっと?!協力伝道」の第3回目で、今回は、コロナ感染症に伴って、お互いにどの様に対応しているかなどを話し合う会でした。そこで、今日の初めにしました様に、ネット配信を見られる方々に声を掛けたり、礼拝に来ておられる方を紹介して少しでもコミュニケーション出来る事も学びました。ネット配信を殆どの教会がしています。受信できない方には教会に来て頂いている所が多いです。ネット配信で教会は守られるのだろうか、このままで良いのだろうかという疑問が在ります。ネット配信で出来ない事の一つが晩餐式です。パンを取る事が出来ません。でも或る教会は、パンとブドウジュースを配らないで、言葉だけで式を行っているそうです。それと洗礼式ですね。これは難しいです。ネット配信の礼拝で、洗礼を決意する方が生まれるかなという疑問も在りました。それと席上の礼拝献金が出来ないので、隣りの西部教会では、各家庭に、大きめの袋をお渡ししておいて、その時に各家庭で入れて頂いて、都合が良い時に教会に届けてもらう事をしているそうです。3月過ぎには、研修会の報告書が各教会に配られるそうですので、それをお配りして、必要な事を話し合いましょう。

 

 

 

 早速今日のメッセージに進みますが、イエスは宣教活動を開始する時に、「天の国は近づいた、神の国は近づいた」と言いました。新約聖書では、マタイだけが「天の国」と言っています。どうしてなのか、そこまで調べませんでしたので、何時かお話します。ルカとヨハネにはこの言葉は出て来ません。天の国は、天に在るのでしょうが、その天の国が近づいて来たと言うのです。近付いて来てしまっているという完了形なのです。ですから、今ここに在るという事です。それをルカ12章で、「神の国は、あなたがたの只中に在る」とイエスは語ります。国ですから、そこには住んでる人、天使かもしれませんが、誰か住んでいるでしょう。私たちは、死んだら天の国に行くと信じていますから、死んで甦った人たちかもしれません。信仰の弱い私の様な者はそこには行けないかもしれません。マタイ5章に「山の上の教え」が在ります。そこでイエスは、「心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである」と言いました。ですから、天の国に住む人は「心の貧しい人」かもしれません。心が貧しいとはどんな事なのか。気仙沼の山浦先生は、そこを次の様に訳しています。「頼りなく、望みなく、心細い人は、幸せだ。神様の懐にしっかりと抱かれるのは、その人たちだ」。「心」の元の言葉は「プネウマ」で、これは、風とか息の意味で、神が人間を土で形を造って、そこに「息」を吹き込まれましたが、その「息」がプネウマなのです。心とも訳せますが、神から吹き込まれた命、元気、力とも訳せると思います。

 

 

 

 心が貧しいとは、神から頂いた、命、気力が乏しいとも解釈できるわけです。それで山浦先生は「頼りなく、望みなく、心細い人」と訳したのです。私たちは死んだら、天の国、神の国に行くと思いますが、「その天の国が、こっちに来た」とイエスは言った。生きている私たちのここに、天の国が来た。私たちの間に在るのですが、その「国」を山浦先生は、「神のお取り仕切り」と訳し、その「神のお取り仕切りが近づいた」のです。つまり、私たちのいろんな事を取り仕切って下さる事が始まったのです。または、いつくしみ深い神のみ心が、頼りない私たちの心に「入り込んで下さった」とも言えるのです。「近づく」というイメージよりも、もっと踏み込んで「入り込んで来た」と私は、受けています。「この世の中に入り込んで来た」というのです。そしたら、カトリックの井上洋治神父、この方は、プネウマは息、風も意味しますので、「風の会」を主宰されていました。その井上神父が「悲愛の突入」という言葉を使っているのです。アガペーを井上神父は「悲愛」と訳しています。今度、この言葉を見つけました。「突入」なのです。何となく「神の国が近づいて来た」ではなく、そんな遠い感じではなく、「神の悲愛アガペーが突入して来た」のだと受ける事が出来ます。「神の悲愛が私たちの間に突入して来て、私たちを取り仕切ってくださる」と読ませて頂いています。「頼りなく、望みなく、心細い人たちの間に、悲愛の神が突入して来て、いろいろ取り仕切って下さる、いろいろお世話下さる、それが始まった、これが、「天の国が近づいた」の読み方だと受けています。

 

 

 

 そしてその「頼りなく、望みなく、心細い人」は、ただ、ガリラヤの極貧の人々プトーコイだけではなく、イエスの弟子たちもまた、頼りなく、望みなく、心細い人だったのです。福音書には、弟子たちがその様な人たちとして、描かれています。「信仰の薄い者たちよ」とイエスに言われますし、弟子たちは立派な人だと思われがちですが、ペトロもイエスの裁判の場面では、ニワトリが二度鳴く前に、三度イエスを「知らない」と言いました。こんな風に、頼りない心細い弟子たちです。この弟子たちも含めて、頼りなく望みなく心細い人々の只中に、イエス・キリストが悲愛と共に突入して来たのです。ところが、更に、驚くべきことが起こったのです。イエスが復活すると同時に、あの逃げ散らかした弟子たちが、復活して、イエス・キリストの福音を、力強く宣べ伝え始めたのです。つまり、イエス・キリストの復活と共に、ペトロ初め弟子たちが復活したのです。それがイエス・キリストの福音だと、受けさせて頂いております。

 

 

 

 弟子たちも含めて、頼りなく望みなく心細い人々もまた、イエス・キリストと共に、復活した出来事が起った、これが、イエス・キリストの福音として、力強く述べ伝えられて来たのです。この事を、今度改めて、強く感じました。私たちもまた、頼りない心細い者ですが、イエス・キリストの復活に預かって、天から突入して来た悲愛の命、力を頂いて、ここから、先に、前に、歩み出す事が出来るのではないでしょうか。それは同時に、私たちがいろんな復活した方々から、命と力を頂くのです。頼りなく望みなく心細い人々を通して、弟子たちもそこから復活したように、突入して来た悲愛を頂くのです。私たちイエス・キリストの弟子たちの末の一番端っこに連ならせて頂く者も、イエス・キリストの復活に預かって、「非愛」を頂いて、「非愛」の実現に向かって、前に歩むのです。悲愛は決して天の高い所から来るのではなくて、私たち頼りなく望みなく心細い者たちの交わりから、私たちも復活の力に預かるのです。