「大きな光と小さな家畜小屋」  クリスマス礼拝

 

             2017年1224

 

ルカ2:1~7  招きの詞:マタイ4:15~17

 

 

 皆さま、クリスマス おめでとうございます。皆さまお一人お一人に心から感謝を申し上げます。良く言われますが、年をとると本当に時が早く経ちます。それでも振り返ると今年は、坂本さんと知子さんがのぞみの群れに加わって下さいました。心から感謝します。また皆さまお一人お一人が時に応じて支えて下さった事を感謝致します。(ちょっと上がってしまって、飛んでもないことを言い出すかも知れません。)マタイによる福音書では「大きな光が暗闇に居る人たちを照らした」という様な事が書かれています。「大きな光」といえば何を想像されますか。太陽の光かも知れません。太陽の光はもちろん恵みですが、余りにも強すぎる、大きすぎるという光でもあります。また片方には「小さな家畜小屋」に焚き火か何か小さな光が照らしています。本当に対照的な言葉がイエスのご降誕には出てきます。

 

 「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし」とルカのザカリアの予言は在りますが、これはイザヤ書の言葉です。それを少し見ましょう。イザヤ書9章1073頁になります。8章の最後に「ダビデの位」からです。9:1からは「闇に中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に輝いた」とあります。この「住む」という言葉は「座っている」という言葉だとこの前申しました。ですからルカは「座している者たちを」と訳しています。それを「力なく座り込んでいる人々を大きな光が照らした」訳したいです。この前の祈祷会で読んだのですが、この「大きな光」はダビデ王を指しているのです。しかしダビデとその子ソロモンのダビデ王国は2代で紀元前933年に分裂してしまいました。親子で70年程しか続かなかったのです。その後200年程後にイザヤが出て来ました。ダビデの時にあんなに大きな栄光を見たのが、その後主なる神の怒りに触れて南北に分裂し、紀元前722年には北イスラエルが滅亡しました。

 

9章7節からは「北イスラエルの審判」の予言が始まります。その前に6節では「ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げられる」と言います。それで民は良い事だけを信じて、真に神に従いません。そこで7節からの「審判」の言葉です。しかし民は聞きません。8節「民はだれもかれも エフライム、サマリアの住民も それを認めたが、なお誇り、奢る心に言った。れんがが崩れるなら、切り石で家を築き 桑の木が倒されるなら、杉を代わりにしよう」と、自分たちは決して倒されない」と己惚れに、奢り高ぶる心になってしまっていました。その形でダビデの子孫であるユダヤの指導者たちはまた、新しい暗闇を作り出してしまいました。死の陰の地を作ったのです。更にイエスが生まれられる頃にはローマという大きな権威が闇を更に深くしました。死の陰の地を更に険しいものにしました。

 

そんな中でユダヤ人たちは、状況を変えてくれる大きな力を待ち望みます。それに対してイエスのご降誕の出来事は余りにも小さくて、余りにも人に知られない出来事でした。例えば羊飼いたちが天使の声を聞いて、イエスの所に来ました。でも羊飼いたちが何人居たでしょうか。ベツレヘムの町の人の数からすればホンの一握りです。マタイでは3人の博士たちが東方から訪ねて来たのですが、その頃のローマの権威に比べるとそれは本当にちっぽけなものです。この場所は小さな家畜小屋です。王宮などではありません。多分、周りは真っ暗でしょう。ベツレヘムはエルサレムン南で東の近くには死海があります。死海は海面下390Mで逆にベツレヘムは険しい山の上に在る町です。ホンの少し光が漏れているのかも知れませんが、周りもベツレヘムも真っ暗な世界ではないでしょうか。これがどんな事を意味するのでしょうか。私にも中々分かりません。

 

 大きな光、強い光は影も強いでしょう。でも弱い光なら影も優しいでしょう。そんな光として来られたのかも知れません。一寸皆さん、ご想像下さい。この小さい家畜小屋に、見えないモノ、お分かりでしょうか。描かれていません。マタイもルカも書いていません。皆さん、もうお分かりでしょう。その家畜と共に働いている貧しい人たち、陰に隠れているのです。この場面には現れていません。隠れている人々が居るのです。この頃、本当に深い深い闇の中に沈んでいる人々を訪ねて努力された人々の話をしました。例えば上野英信氏、犬養先生、田中正造さん、国が豊かに成る為に陰で何をしたのかを探りながら、その深い闇の中に光を見つけようとされた方々が居られた、この事に気が付いたのが今年一番の教えだと思っています。謂わばイエスの代理の様な方々です。ですから人間も見捨てたものではないと思うのですが、やはり大変です。私たち凡人には中々出来ません。

 

その凡人でもちょっとその気になる話としては、白雪姫の七人の小人たちをしました。ハイホーハイホーと言いながら小さなカンテラを下げて暗闇の中に入って行くのです。その小さなカンテラの光を頼りに、深い坑道の奥に入って宝物を探すのです。ハイホーにはいろんな意味に使われます。さあ~出かけるぞ!もハイホー、仕事開始も、中休みも、仕事の終りもハイホーの掛け声で済むようです。ドクと呼ばれる年長の小人が声を掛けます。この小人たちの様に、小さな光で在っても、前に進んで何かを照らし、何かを見つける、何処かへ辿り着けるのです。イエスのご降誕の小さな家畜小屋にさえ隠れている、小さく貧しい農民の人たち、やがてイエスがその人々を村々町々の隅々を訪ねて声を掛けられる場面につながるのだと思います。極貧の人々プトーコイと呼ばれた人々、イエスがその姿をご覧になって「ハラワタが千切れる思いになられた人々、家畜小屋の陰に隠れて居た人々にやがて光を当てて下さいました。

 

大きな光、強い光を見ると目が眩みます。神様を見たら神様に目が眩みます。神殿宗教者たちや律法学者たちがそうでした。小さい光の陰になって居る部分を、陰に居る人々を見て下さるイエス、どんなに貧しい人にも輝く命、それを消すわけにはいかない。そこに、深い暗い所に、命を送り続けて下さる。今朝の詩編(16章10~11)「あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えて下さいます」と在りました。本当に暗い所に居る人々と共に身を置いて下さったイエスとなって下さった幼子の、この小さな家畜小屋でのご降誕の出来事に心から感謝致します。 アーメン