「彼らは見るには見るが、認めず」 

                         2018年5月20日

 

 

マルコ4:10~12     招きの詞マルコ7:1~8

 

 

 

 皆さま、お早うございます。安倍さん、よく来て下さいました。話が通じるかどうかと思いますが、本当によく来て下さいました。それから大神夫人もお久しぶりで、お元気でしょうか。こうして来て下さる事を感謝したいと思います。このピンクの花、きれいですが皆が名前は何だろうと言っておりましたが、奥村夫人が植えて下さった花でフットソニアという名前だそうです。のぞみの庭もいま、きれいな花が咲いていますが、その季節がまた来たなと思わせてくれます。

  

実は今朝は説教の原稿を忘れて来てしまって、いま慌ててメモを綴ったのですが、元より良くなっているかもしれません。今読んで頂いた個所に、一寸イエスらしくないなあと引っかかっています。弟子たちや、また傍に一緒にいつも居る人たちには、「あなたがたには神の国秘密が打ち明けられている。」と在りますが、この箇所はマルコの4章で、初めから此処までを読んでみても、イエスが神の国の秘密を打ち明けるような場面は見当たりません。同時に「外の人々には、すべてがたとえで示される」と区別しています。差別の様にも思えます。外の人々にはたとえでしか教えないけど、貴方たちには神の国の秘密が打ち明けられていると事が書かれていて、人を差別するイエスは何だろうと一寸思います。そこでず~っとその前後を読んでやっと分かった様な気がします。イエスらしくないと言いましたが、ではイエスらしいとはどういう事でしょうか。

 

1章40節63ページですが、「重い皮膚病の人をいやす」という見出しの所です。「イエスが深く憐れんで」とあります。前からこの言葉の説明をしていますが、今朝初めての方もおられますので、本田神父はここを「ハラワタが突き動かされるような思いになった」と訳しています。私は「胃が痛くなって」とか「断腸の思いになって」と昔からの表現もあります。すごく苦しんでいる人に思いを寄せて下さる方です。重い皮膚病は「ライ病」と言われた病気です。英語ではそう訳して有ります。「手を差し伸べてその人に触れ」と在りますが、それは片手だけを出して触れる感じではなくて、両手で触れたのですから、抱く様な感じでないと両手では触れません。私は皮膚病の人にそんな事は出来ません。こんな姿がイエスらしいと思います。

 

そして外の人にはイザヤ書からの引用の言葉が書かれていますが、詳しい資料を置いて来たので省略させて頂きますが、もう一度この箇所とその前後を読んでみて、「分かった!」という気がします。この箇所の後の方に糸口を見つけました。例えば、4章33節、次のページの下の段に「たとえを用いて語る」という見出しが有ります。「イエスは人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。」のです。しっかり相手の事を見て、その人に通じる様にと話す気持ちを持っておられます。「たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。」ここも特別扱いされている様に見えますが、その「特別扱いを受けた弟子たち」に次々に出来事が起ります。例えば8章14節からは「ファリサイ派の人々とヘロデのパン種」の記事で、その連中のパン種に気を付ける様にイエスに言われると、弟子たちは慌てて、「パンを持って来なかったから、怒られたのだ」と論じ合います。そうではないのです。18節をご覧ください。「目がっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」とさっきのイザヤ書の様な言葉を弟子たちに向けて話されます。4章35節から「突風を静める」出来事が在ります。ガリラヤ湖は東西が崖なので狭くなっていて、そこを風が通り抜けると突風になります。それから6章45節からは「湖の上を歩く」記事がありますが、両方の記事とも「弟子たちは非常に恐れ、驚いて」います。その揚句「いったい、この方はどなたなのだろう。」と弟子たちが言うのです。神の国の秘密を教えられた弟子たちが驚いているのです。

 

こんなふうに弟子たちがまったく分かっていない姿が描かれているのです。イエスは弟子たちや周りにいる人々に特別に教えていると言われながら、弟子たちが慌てふためき驚き恐れる様な場面をマルコは描いて、まったく弟子たちが分かっていない姿を書いています。弟子たちを特別扱いしている様に見えながら、理解できていない弟子たちの姿を浮き上がらせる構成になっています。そしてマルコ福音書では、次々に出来事が起っていく、これがまた特徴です。教えの中味もですが、次々に出来事が起るのです。マルコ福音書の初めの1章21節「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」出来事が早々に記されています。29節「多くの病人をいやす」、40節「重い皮膚病の人をいやす」、2章「中風の人をいやす」、4章で「突風を静める」、5章で「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」、21節「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」、6章では「五千人に食べ物を与える」などなど、出来事が起りますが、その対象は、「外に居る人々」です。

  

外の人々に、イエスは手を差し伸べて癒すような出来事が起っていきます。弟子たちと外の人々を差別して居られるようですが、実際には外の人々の所に出向いて行って、癒す出来事をマルコは書いています。弟子たちは特別に教えられている筈なのに「まだ分からないのか」と言われてしまいます。ですからイエスは外の人々を差別しておられるわけではないのです。私はここに辿り着くまで、分からなくて、聖書の流れを読んでやっと分かったと思っています。そして私たちも気を付けなければならないと思いました。「私は教会の内側の人だ。あの人たちは教会の外の人たちだ。」と分けてしまいがちです。イエスは外の人たちに手を差し伸べ、出向いて行かれたのです。だから人々は出来事に圧倒されてイエスに付いて行く様になったのです。イエスは悩み苦しむ人々を訪ねて行く旅をして下さった。イエスは内側を固めるのではなく、弟子たちを鍛え直すのではなくて、外の人々に手を差し伸べて癒して行かれた。その結果、ユダヤの宗教者たちの反発を受け、追い込まれて、「殺せ、殺せ」と言われる様になりました。でもイエスはその姿勢を貫いて十字架に架けられました。内を固めるのではなく、外の人々に手を差し伸べ、出向いて下さった。このイエスを私たちは主として仰いでいます。イエスがどこに心を向けて下さったか、その事をしっかり受けて歩みたいと願います。 

苦しむ人々の主イエス・キリスト アーメン