「パンもお金も持たないで」  2019年5月12日

 

ルカ9:1~6       招きの詞マルコ10:42~45

 

 

 

 皆さま、お早うございます。いよいよ来週が教会組織会議になります。今朝、来週の日曜日の天気予報を見ますと、曇り時々晴になっていました。大雨にはならないようで良かったと思います。教会組織会議も大事ですが、教会としてこれからずっと長く歩む事、これがもっと大事ですね。福田先生も感謝礼拝の説教の題を「キリストの教会で有り続ける事」と付けておられます。私たちがただお祭り気分で、教会組織会議をするのではなくて、これからどんな気持ちで歩んだらよいのか、考えなければなりません。こののぞみ伝道所は1999年4月から、丁度20年前から、再び無牧師になりました。この時、4月第1主日の私の説教題は「糧食の備えをせよ」でした。これから荒野の40年の旅を覚悟しての事でした。2005年3月に西方沖地震が起きて、それまで築百年の農家を借りて礼拝を守っていましたが、危険になったので、集会できる場所を探しました。11月に今のこの建物が土地付きで売りに出ていたので、伝道所内部の方による教会債とそれまでの貯蓄5百万円程を基に購入しました。エアコンなど内部を整備して、12月第1主日から、この会堂で礼拝を始めました。糧食の備えが幾らか出来ていたお陰だと思います。それから14年が経ち、皆で話し合って、いよいよ来週、教会組織会議となりました。

 

 

 

 皆さまは「賽は投げられた」という言葉をご存知ですね。共和制ローマの末期に、民衆の支持を受けたシーザーと、元軍人のポンペイウスとが内乱になり、シーザーがイタリアとガリアの国境に流れるルビコン川を渡って、ポンペイウス側を攻めた時に、シーザーが言った言葉とされています。私の友人がこの言葉の原語を調べたら、これは「現在完了の命令形」だと分かったそうです。ですから正確には「賽は投げられた」ではなくて、難しいですが、「賽は投げられてしまえ!」と言う様な感じなのです。さあ、ルビコン川を渡って攻めて行け!と言う勢いのある言葉なのです。しかし、私たちが教会組織を決意したのは、そんな気持ちからでは決してありません。無謀な冒険をするわけではありません。私たちの今回の出発に際して、糧食の備えは十分ではありません。普通に考えても、これからどうすれば良いのか、その計算も出来ない程です。お金も無い、人も少ないです。そこを危惧される方々も居られます。当然です。

 

 

 

 しかし、この頃の世の中を見ますと、例えば、昔は人生の設計と言いますか、日本では定年まで一つの会社で働いて老後を過ごす事を考える事が出来ました。今はそれが崩れて、非正規社員として働く人々が多くいます。中々正社員になれない。またこの頃、一流企業で働く50才前47,8才の社員が辞めるケースが多くなっています。この年令になると社内の出身レースも大体先が見えて来て、遅れた人達がまだ潰しが効く間に転職などをして、第2の人生を歩み始めるのです。今でも65才までは働けるし近い中70才までは働かなければならなくなりそうです。年金もどうなるのか。人生百才時代の老後の設計は中々見通せない状況です。貿易など経済の話はここでのテーマでは在りませんが、バプテスト連盟もバブルのおかげ受けましたが、その後の歩みは計算通りではなかったようです。私たちも計算は出来ませんが、だからと言って縮こまる必要はないと想います。探して努力すれば道は、狭い道でも拓けるのではないでしょうか。

 

 

 

 そのお手本に、イエスが十二人の弟子たちを派遣する時の事を先ほど読んで頂きました。弟子たちは旅をするわけですから、普通ならお金や必要なものを用意します。元々イエスの所にお金は無かったのでしょうし、弟子たちも貧しい漁師だったりですから、お金は無かったと考えられます。兎に角、パンも袋も杖も持って行くなと命じられました。杖はあの頃の山道の旅には必需品だったと思いますが、それも許されません。弟子たちには何の計算も気持ちの余裕も無い。「お金も持つな」です。それでも弟子たちは出て行きました。様々な努力や工夫、そしてひどく苦労したと思います。互いに支え合う、助け合う気持ちが非常に大事だったでしょう。時には弟子たちが麦畑の傍を通ると、その穂を摘んで食べたのです。しかし、イエスが厳しい事を言われたのは、弟子たちが行った先で、人々に仕える事が大事だと考えておられたからだと思います。人々の下になる事を心掛けるようにと考えての言葉だったと思います。伝道しに行く相手はガリラヤのプトーコイ極貧の人々です。その人々よりも下になる事は、何も持たない事です。その様な姿や気持ちで行きなさいと言われたのではないでしょうか。何も持たなければ食べ物を少し分けてもらえるし、今夜泊めてもらえるだろう、その事を弟子たちに徹底させられたのだと思うのです。

 

 

 

 私たちが教会と成ってこれからどの様に歩むのか。私たちがお互いに使え合い、また、世の小さくされた人々に仕える気持ちを持つ群れで在りたい。弱く小さくされた人々は、殆どパンもお金も持ちませんので、私たちも先ずは、パンもお金も持たなくても仕える気持ちを大事にしたいです。イエスが弟子たちを派遣された原点が、教会の原点ではないでしょうか。私たちも其処に立つ群れで在りたいです。現実、そうでしか在りませんが、だからといって、立ち止まっているのではなく、前に向かって歩む群れで在りなさい、とイエスに促され励まされていると信じます。私たちも前向きの気持ちで、さあ、参りましょう!と共に歩み出したいのです。実際に私たちにはパンもお金も袋も在りません。しかし弟子たちは何も持たないまま、派遣されました。貧しい人々に仕え、神の国の福音を宣べ伝えるためです。

 

 

 

 私たちには何も無い、だからこそイエスの御心を受けて、互いに支え合い、小さくされた人々に仕える群れとして、一人一人を大事にする様に歩み出す事が出来るのだと思います。キリスト教の歴史を見ても、スタートがそうでしたし、大きな迫害の試練を受けて、人々は殺され禁止されました。しかし、キリストの福音は過去の遺物ではなく、今こうしてしっかりと生きて働いていて下さいます。その様な神の力です。私たちが如何にイエス・キリストに信頼して生きるか。互いに支え合い、祈りつつ共に歩みましょう。

 

  主イエス・キリスト 祝しお導き下さい。アーメン