「各個教会主義」バプテストの特徴Ⅵ   

                  2019年12月15日

第二コリント1:23~24 招きの詞ヨハネ12:24~26

 

 

 

 皆さま、お早うございます。中村哲先生のご葬儀が終わって、遺骨の一部がアフガンの砂漠が緑の大地に変わった土地に埋められるとお聞きしました。大地に骨を埋めるというか、大地そのものに成る、というお気持ちではなかったかと思っております。今朝は、その中村哲先生の言葉から学びたいと願っています。バプテストの特徴を連続してお話して参りました。万人祭司、会衆主義、聖書主義、政教分離、信仰告白後のバプテスマ、そして、今朝は各個教会主義です。一応、このシリーズはこれで終わりたいと思います。来週はもうクリスマスです。

 

 

 

 各個教会主義は、夫々の教会は平等な関係で、何処かの教会や組織に支配される事は無い、夫々が自立している、みんな同じ立場の教会だという考えです。これはカトリックが普遍主義で、どこに行っても同じだという考え方に対して、バプテストが今から500年ほど前に考えた様に、今、此処で神を讃美する、聖書を読む事が大事だ、2019年に前原の地で聖書を読み、イエス・キリストを礼拝する事に意味が在るのだと、私たちは考えたいのです。同時に各個教会主義は決して孤立、単独主義では在りません。自分たちだけを考える訳では在りません。ですから、連盟も協力伝道を強調しています。今、此処で、神に出会い、神を喜ぶ、神から恵みを頂くのです。実存主義神学は20世紀に生まれたのですが、実は500年も前に、イギリスの地で生まれていたとも思えます。人間の未来に向かって歩み出す事を大事にするのです。それはここから何処か別の場所に行く事では無く、此処が変わる、変えるという事も在り得るわけです。今の状況に安住するのではなく、ここに何かしら困った事が在る限り、そこが変わる様に努力する事が大事です。

 

 

 

中村哲先生はクリスチャンで在られたのですが、仏教の「照一隅」という言葉を大事にされていました。「一隅を照らす」と読むそうです。天台宗を拓かれた最澄上人の言葉だそうです。ほんの小さな片隅を照らす、これを大事にされて、中村先生は、自分が出来る事は、ほんの一隅を照らすだけだと言われていました。その気持ちでアフガンの地の砂漠を緑の農地に変えられたのですが、お気持ちは一隅を照らすだけだという事だった様です。掘って掘って作られた用水路の長さは、25.5kmだそうです。ピンと来ませんが室見川が15.1kmですから、それより10kmも長いのです。福岡市全体を貫く様な長さです。用水路によって水が来たおかげで農地になり緑の大地になって、畑仕事が出来るようになったと土地の人々は喜んで、農作業をされていました。その用水路が出来た事は、中村先生に依りますと、農地が生まれただけではないそうです。砂漠が緑の大地に成っただけではない。

 

 

 

水が流れて来ると、先ず子供が喜ぶそうです。これまで水に触れた事がない子どもたちですから、水を浴びて大はしゃぎです。川に水が流れると、次にどうなるでしょうか。川に魚が現われる。「魚心あれば水心」とよく言われます。魚を大事にするなら、水を大事にする事が必要だと言うのでしょうか。釣りが出来る、魚が獲れるようになるのです。蛋白源が取れます。用水路は砂漠を緑の農地に変えただけではなかったのです。大きな命の躍動が起こったのだと思われます。魚だけではなく、水辺には動物も来るでしょう。中村先生がされた事は、想像以上に人が喜びを持って生きる事を可能にされたのです。大きな力になったのです。でも、ドクターは「先ず、生きなさい。病は後から治す」とも言われました。生きるには先ず、食べる物が必要です。「飢えと寒さに震えている子どもたちに、必要なのは銃弾ではない。暖かい食べ物だ」という事で、その事を貫かれたのです。

 

 

 

用水路を掘っていると、上空を米軍のヘリが飛びます。時にはそのヘリが、作業をしている人々に機銃掃射をしてくるそうで、命からがら逃げた事も在る、と言われています。「彼らは人を殺すために空を飛んでいる。でも僕らは生きるために地面を掘っている。用水路を掘っている」と言われます。米軍とは向き方が全く逆です。さらにドクターは「今何をしなければならないか、ではなくて、今何をしてはいけないかを考えるべきだ」とも訴えられました。著書に「辺境の地から世界を診る、世界から辺境の地を診る」というのが在ります。今、何をしてはいけないか、私たちは中々考えません。例えば、のぞみもやっと教会になって連盟に加わって、何をしなければならないかと考えます。しかし、その前に、一人のキリストを信じる人間として、「何をしてはいけないか」と考える必要が在るのではないでしょうか。何をしていけないか、中々難しいです。具体的に直ぐには浮かんできません。普通に言えば、欲を出してはいけないとか、或は、イエスの言葉に従えば、人の上に立とうとしてはいけないとか、でも在るでしょう。ドクターは現地の人々を指導する時にも、ショベルカーなど自分でも運転されましたが、技術を持った人々を育てる学校も作られて、すでに千人以上の人が卒業しているすですが、その様に、人々を指導する時にも、一緒に働いた日本人の方に依れば、決して上から目線で指導する、威張る様な事はなかったそうです。一緒に働く姿だったそうです。

 

 

 

今、何をしてはいけないかと考える時に、普通の人として、或は一人の日本人として、何をしてはいけないかを考える時に、経済の問題を抜きに考えられないと思います。経済だけでは在りませんが、経済もグローバル化しました。同時に今は、グローバル化し過ぎて、逆にナショナリズムが起こって、国益を優先する様になっています。トランプ大統領の貿易摩擦の問題がそうです。中国も対抗措置を打ち出し、EUもそうです。地球全体をいろんな問題が駆け巡る様になっています。その中で、どの時代にもそうでしたが、今新たに「富国強兵」の競争が始まりました。その中で憲法改定問題なども起こっていると思います。富国強兵、つまり、力に頼む様な事をしてはいけない、と私は今思います。これは、言うは易く、行うは難しです。力に頼ってはいけない、これは日本人としてもそうですが、一人のキリスト者としても、自分を誇るような事をしてはいけない、と申しますか、先程の聖書の個所で申しますと、「一粒の麦、地に落ちて死なずば」は有名ですが、「自分の命を守ろうとする者はそれを失う」が続きます。自分の命をどの様にすれば、人に仕える力になるか、或は、愛を生み出せるかという事です。

 

 

 

のぞみ教会を大きくするとか、皆で力を合せて、とかという考え方になりますが、「慎ましく、一隅を照らす」と言いますか、この糸島のこの地で、何をしたら一隅を照らす事になるのか、これを心掛けて行きたいと願います。花壇がきれいになりました、この地域に奉仕する事としては、まだ何か在ると思います。教会の命を守ろうとして、大きく強くなる事を願うのではなく、人々に仕えて行く、何かしらが必要だと思います。皆さんで知恵と力を出し合って、これからの、のぞみの歩みを進めて行きたいと願います。しかし、基本は私たちの知恵や力ではなく、私たちの主イエス・キリストが生きて下さった生き方、神の子の力を持ちながら、ガリラヤの追い詰められた人々のために、一隅を照らして下さいました。そこに各個教会主義の源が在ります。主イエス アーメン