「万人祭司」バプテストの特徴Ⅰ     2019年11月10日 

 

ローマ8:35~37     招きの詞 マルコ3:31~35

 

 

 

 皆さま、お早うございます。今朝はずっと寒くなりました。今月中盤から冷え込み急速に秋が深まるようです。風邪に気を付けて下さい。いよいよ、今週バプテスト連盟への加入が決まる会議が在ります。私たちは、はっきりバプテストの群れに入る訳ですが、バプテスト教会はどんな事を大事にしているのかを、もう1回学びたいと思い、今朝は「万人祭司」を選びました。大体は「聖書主義」という事、つまり聖書を大事にして、聖書を通して神の事、イエス・キリストの事、聖霊の事、この三一の神を学びます。カトリックでは中世には、司祭たちだけが聖書に接する事が許されていました。それに対して、誰でも聖書を読んで聖書を大事にする事がプロテスタントによってもたらされました。「万人祭司」も大事なことです。すべての信者が祭司と同じで、役割は違うけれども、祭司や牧師が上で、普通の信者は下で在るという理解をしません。皆が同じ立ち位置であるという事でしょう。それを今朝は考えたいと思います。さらに教会の運営は「会衆主義」で、民主的に皆で決めて行くとしています。

 

 

 

 バプテストが生まれた背景にはイギリスの聖公会があります。ヘンリーVIII世の時に、カトリックから離脱しました。6回の離婚、これをカトリックは認めないので、カトリックから出てしまいました。1534年に聖公会を作って、その一番上に王自身がなるという法律を作りました。1538年には法王パウロIIIから破門されます。こんな中で政治と宗教が絡み合って、そこからピューリタンが生まれたりしました。聖公会の教義は殆どカトリックと同じです。その聖公会から分離派が生まれて、スイスの宗教改革家ツヴィングリなどの影響を受け、バプテストが生まれますが、歴史の事は別にして、バプテストの特徴としてだれでも聖書を読み大事する事が挙げられます。それを推し進める時の流れとして、中世から段々世の中が、人間に目覚める世界になって行きます。14世紀にギリシア・ローマの人間を謳歌した時代に戻ろうと、イタリアでルネッサンスが起こります。神中心から、人間が表に出て来ます。その力は経済が興隆してきた事にも依ります。

 

 

 

 そんな中で、キリスト教会でも「聖書を全ての人の手に」と求める声が大きくなりました。司祭たちを通さなくても、自分で聖書を読んで、神の事を直接に知りたいと思うようになったわけです。ついにルターの宗教改革が起こります。1517年でしたかね。ルターは聖書をドイツ語に訳しました。幸いな事に、そこにグーテンベルクの印刷術が登場し、急速にドイツ語聖書が普及しました。ドイツ以外にもスイスのツィングリが1523年にチューリッヒ州で宗教改革に成功します。ヨーロッパ・イギリスなどでいろんな人たちが宗教改革を起こします。その様な状況の中で1600年代に聖公会から分離した人々が幾つかの流れを作ります。その一つがバプテストです。バプテストの源流に再洗礼派(アナバプテスト派)が在ります。イギリスではピューリタンを迫害したので、多くのクリスチャンがアメリカに逃れます。

 

 

 

そんな状況で、バプテストの大きな流れはアメリカに移ってしまいました。アメリカのプロテスタント教会の中では、バプテストが一番大きい様です。一つが北部のバプテストのグループで、これが日本に入って来て、バプテスト同盟となります。関東学院大学がその流れです。南部のバプテストが日本に来ました。その一人が福岡に来て西南学院を作ったCK.ドージャーです。この南部は初め九州を中心に伝道しました。そこで生まれたのが、バプテストの西部組合でした。その中に起こったのが田中遵聖牧師のアサ会です。アメリカからの資金が細って来て、西部組合は縮小せざるを得なくなり、このアサ会を追い出しました。戦争中には基督教団にまとめられて、戦後1947年に日本バプテスト連盟を組織します。アメリカ南部バプテストから巨額の資金が流れて来て、たくさんの教会が生まれました。宣教師も溢れていました。しかし今や、日本の連盟はアメリカ南部バプテストから、経済的にも組織的にも分離しました。協力献金という形で、何とか自立しています。連盟は日本経済バブルの時に、新宿の事務所を莫大なお金で売り、直後にバブルが弾けました。その資金を基金にして、その後を運用しようとしてきましたが、基金を取り崩して、今日に至り、ジリ貧状況に陥っています。

 

 

 

すべての信徒が祭司と同じで、平等で在るという信仰です。欧米のバプテストの歴史の中で、誰でも説教できると考えたラディカルリフォーメーションも起こりましたが、他のプロテスタントから非難を浴びて、一応、説教者の資格と言いますか、牧師職が定着しています。しかし、教会が小さくなり経済力もなくなり無牧師の教会が増えています。さらに神学校に行く「献身者」も非常に少なくなっています。西南神学部の牧師コースの今年の入学者はゼロです。そこで牧師の役割を執事や役員が協働して担う学びや試みがなされています。私もその学びのグループに入っています。説教を担う人を前向きに捉えようとする試みです。しかし、皆が同じパターンだと言うわけでは在りません。説教する資格は在るとしても、それぞれは違う賜物を頂いているのですから、教会や礼拝の中でいろんな奉仕が出来ます。身体のそれぞれの部分が同じではなくそれぞれ違う役割が在ります。しかし、祭司や牧師が上で、説教を聞く人は下なのだという身分制度ではないのです。そこは平等だというのが万人祭司の考え方です。

 

 

 

 自分の賜物を活かして、お互いに仕え合う事はなければなりません。祭司や牧師も仕える人なのです。説教も奉仕なのです。それには心を開いたコミュニケーションと言いますか、お互いに分かり合う事が必要です。お互いの働きに感謝する。主のみ心を行うのは、それぞれの賜物を活かすことですし、お互いに支え合い祈ることでしょう。皆が同じ形ではなく、祭司・牧師が上に立つのでもありません。お互いに仕え合う事です。なぜそう考えるかと言いますと、私たちのこの群れにはキリストの愛が働いているからです。ここにキリストが共に居て下さる、私たちを大事にして導いて下さるからです。その私たちの信仰の最も基本の所にはキリストの愛が私たちの為に働いて居られるからです。ですからお互いのために働くのです。イエスが私たち一人一人に寄り添って下さって、キリストに支えられた私たちだからです。当然お互いを大事にします。主の恵みの中でお互いの賜物を活かし合うのです。

 

 

 

 前にも話しましたが、分かると言う字は、判るも在りますが、「分け合う」という事が基本だとすれば、「分かる」という字が、それに近いと感じます。分かち合う事でお互いに分かるのです。ここに万人祭司の考え方があります。祭司、牧師も仕える人であり、お互いの事が分かるから、牧師の奨励も意味あるものになります。万人祭司の考え方にはお互いに支え合う事が基本に在ります。そしてその事の基盤には、イエス・キリストが私たちの為に働いていて下さる、つまりキリストの愛が在るからです。これはどんな事が在っても、私たちから離れないとパウロが教えています。キリストは決して私たちから離れません。キリストの愛から私たちを引き離すものは何も無いというパウロの言葉を受けたいと願います。私たちを最も深い所で支えて下さるイエス・キリストに心から感謝申し上げます。父と子と聖霊なる神に アーメン  感謝