「主イエスにお願いする」     2018年4月22日

 

 

    マタイ8:1~4    招きの詞マルコ5:25~34

 

 

 

 皆さま、お早うございます。文美さんは新しい歩みを始められる事になりましたね。本当に嬉しく思い、また主イエスのお守りをお祈りします。今朝は「主イエスにお願いする」という題にしましたが、大体私たちの祈りは殆どがお願いの祈りですね。感謝のお祈りは少ないし、主の祈りに在ります様に「主の栄光を讃美する」などは殆ど在りませんね。「主イエスにお願いする」のですが、もっと考えるべき事、或は改める事が在るのではないかと思います。先ほど新共同訳を読んで頂きましたが、開けたままにして下さい。本田神父の訳のその部分を読みますので参照して下さい。「主よ、あなたがその気になればわたしを清くすることが出来るはずです。」「わたしは、望む。清くなるように。」と本田神父は訳しています。ここで小さい事になりますが、「わたしは望む」というのが元の言葉です。「主よ、御心ならば(あなたが望んで下さるならば、)」というお願いをします。それに対して「わたしは望む」とか「よろしい」と訳されています。この「望む」という言葉は現在形なのです。

 

英語でもそうですがギリシア語でも現在形は今のこの時だけではなくて、時間の広がりがあって、この頃の状況の中で使われる言葉です。 例えば冷蔵庫を開けて「オレンジジュースを飲む?」と聞くとします。ちょっと英語ですみませんが、Do you drink orange juice? と言うと思いますが、Do you drink orange juice?と尋ねますと、これは「あなたはいつもオレンジジュースを飲んでいるのか」という意味にもなるのです。この頃の時間の幅が在ると言いますか、習慣を現すのです。ですから「わたしは望む」という訳も出来ますが、「わたしは望んでいるよ。いつもそのつもりでいるよ。」とも訳せるのです。私は今回この訳で考えて見ました。「主よ、あなたが望んで下さるならば、私は清くなる事ができます。」「わたしはいつもその様に望んでいるよ。だから清くなりなさい。」この様にイエスの言葉を受けることが出来ると、この場面を解釈しました。私たちはいつもイエスに導かれ或は癒される事を願っているでしょうか。

 

 困った時に「神様!」という事が多いのですが、「主イエスよ!」と主イエスにお願いする事を強調したいのです。それは言葉に出さなくてもその気持ちになっている事も指すと思います。先程のマルコの方では、十二年間も出血が止まらない婦人が居て、治る為に財産も使ってしまった。そこでイエスの事を聞いて、イエスの衣にでも触れば治るかもしれない、という最後の最後の、藁をもつかむという気持ちでしょうね。そして人々が押し寄せている中に潜り込んでイエスの服に触ったのです。そこまで追い詰められた気持ちだったでしょう。「イエス様、助けて下さい!」という気持ちですね。その行為をする事で、その女性は癒されました。

 

 さらに癒されただけではありませんでした。「誰が触ったのか?」とイエスは探し始めらえました。誰かが癒される事も大事ですが、「誰が?」という事をイエスは問題にされているのです。治った後ですよ。するとその婦人が恐れながら、実はこういうわけでしたと告白します。するとそれを確認して、「○○君、○○さん!あなたが私に癒しを求めたのかな?」という声を私たちは聞いているでしょうか。イエスからの声を聞いているでしょうか。自分の願い事はします。イエスがそれにどの様に応えて下さるか、これは中々難しいです。ですが聖霊の力に依るのか、私自身の力ではなくて、イエスの力に依るのですから、イエスは何か言葉を応えて居られるかもしれません。「君だったのか?貴女だったのか?」と言う声を、私たちがお願いした時に、祈りをする時に、イエスの声を聞いているか、それを今朝は問題にしたいのです。イエスはそれを確かめられてから、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と言われました。「あなたの信仰があなたを救った。」と部分を本田神父の訳では、「娘よ、信頼をもって歩みを起こしたことが」です。ただ「信仰」が言うのではなくて、「信頼して歩み出した、日常生活をその様に生きる事があなたを救ったのだよ。安心して行きなさい。あなたがその患いから解放されるように」です。      

 

 「あなたが信頼して実際に歩みを起こした、それがあなたを救ったのだ」とイエスが言われた。ただ癒されという事だけではなくて、今で言う「アフターケア」のような、「○○君、君が私を信頼して動き出したから、決心して私に触れようとしたから、それがあなたを救ったのだ。安心して行きなさい。あなたのその患い、その苦しみ、その悩みから、解放されるように。」とイエスは言われました。つまりイエスはいつもあなたが願っている事を思っているよという中で、イエスは癒しの業の後、あなたがその様に生きたから、具体的に行動したから、その事があなたを救ったのだ、信じて具体的にその様に生きる事を大事にされています。その人の努力とか決心とかを認めて下さっています。イエスの力が働いて癒されたのですが、「私の力だ」とは言われませんでした。私を信頼して、私に触れた、実際にその様に行動したからなのだと、イエスは励まされて、もう同じ悩みにならない様に、心を安らかにして生きなさい」との声を掛けられているのです。

 

 こんな声を私たちは聞いているでしょうか。私たちの願いが叶うとは中々行きませんが、その時にイエスが私たちに何か語り掛けて居られるのだと思います。「主イエスよ、お願いします。」「君は誰なの?」「私です。どうぞお助け下さい」という様な対話の中で、「君が実際に努力しているから、それがあなたを救ったのだよ」という声を」聴きたいと願います。この事を日常生活の中で、或は仕事を通して聞くのです。イエスはガリラヤの町や村を訪ねて行かれました。でもガリラヤだけではありません。聖書巻末の地図6をご覧ください。イエス時代の地図です。イエスは今朝の個所の前にガリラヤ湖の向こう側ゲラサ人の地に行かれて戻って来られました。北の方にシドンとかティルスとか在ります。ティルスは以前はツロと訳されていました。ここにもイエスは行かれました。それからシドンを通ってデカポリスに行かれます。デカは10という意味で、ポリスは町という意味です。ですから十の町がある地方を指していました。ここを通ってガリラヤの戻られます。実に北の方から南に降って東にまで足を運ばれます。この辺りは山岳地帯ですし起伏の深い所ですし、今の様に車が在るわけではありません。ロバに乗られる事も在ったかもしれませんが、殆どは歩いてだと思います。

 

 何をするためにそんな遠方まで行かれたのでしょうか。やはり人々に出会うためにです。人々の声を聞くためです。hと人が自分の所に依って来るからそれで良いとはされていません。集まって来る人々を越えて向こうの人々の事も心配して居られる。この様なイエスの姿を知る時に私たちもまた日常生活で出会う事だけではなくて、遠くの人々の苦しみの声を私たちも聞く、そしてその人々の願いを私たちもまた願い祈ろうではないか、そこが教会という所だと思います。個人的に祈り願う事も出来ます。でも一緒に他の人の願いや思いや患いをお互いに分かち合いそして祈る、そこが教会だと思います。自分が知る事が出来る範囲を越えて、いろんな事を知る事が出来ます。教会のお互いの交わりの中で、願い合う事がいま私たちに求められていると思います。イエスに声を掛けられて、ここで一緒に祈りなさいよ、お互いの問題を分かち合いなさいよ、この様にイエスは言われていると信じます。他の人の悩みや苦しみを聞く事は、自分の苦しみや悩み事からその時に、ポッと解放される事にもなるのです。他の人の思いを受ける事は自分の心が開かれる事でもあります。その様な交わりが起る様にと私たちは教会に呼び集められているのだと思います。高みに立って、ほかの人の事を心配してやるという事ではありません。お互いが聞いて来た事を、お互いに患っている事を分かち合い祈り合いながら歩みを越しなさいとイエスの願いでありお気持ちだと信じます。

 

 「あなた方は集ってお互いに分かち合い、遠くの人の事も思い合って歩みなさい。わたしも一緒だよ」といつも声を掛けていて下さる思いを頂いています。イエス・キリスト アーメン