「霊の結ぶ実は愛」      2020年9月13日

 

ガラテヤ5:22~26  招きの詞ルカ10:29~37

 

 

 

 皆さま、お早うございます。先週は台風10号のために礼拝をお休みにしました。皆さま方は大丈夫でしたか。大きな被害も無かった様で感謝です。と同時に、被災者の方々を覚えて、主イエスのお励ましを祈る事も大事だと思います。8月23日にもガラテヤ書を引用しましたが、もう一度、ガラテヤを確認しましょう。巻末地図8をご覧下さい。トルコ中央部の広い地域の名前です。パウロの第二回伝道旅行で訪ねます。第2回は紀元47年春から始めたとされています。パウロの努力によって、いくつかの教会なり集会が生れました。イエスの十字架が紀元30年頃ですから、それから20年も経たないうちに教会が生れているのです。20年は長いとも思われますが、のぞみ伝道所は、1999年4月から無牧師になりましたが、20年目の昨年2019年に教会組織を致しました。この場所に移って来てから(2005年12月)今15年目です。時間の流れの早さを思うと、ガラテヤ地方に教会がいくつか生まれた事の早さを驚きに感じます。

 

 

 

 この手紙は、第3回伝道旅行の途中、エフェソで53年頃、書かれたとされています。ガラテヤにユダヤ人たちが侵入して来て、教会に混乱が生じました。ユダヤ人たちは、律法、特に割礼と安息日を守る様にと主張して、異邦人キリスト者たちを混乱させます。ユダヤ人は異邦人との会食も禁じていました。パウロの福音は、この律法からの解放でしたから、対立は深まります。パウロはガラテヤ書5:1から「自由」を語ります。「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」(13節)と書きます。ユダヤ人も異邦人も、自由へと解放されたのです。ただ、この自由の問題は難しいですね。ドストエフスキーは確か「罪と罰」の中で、「自由なら、人を殺しても良いのか」という問いに「良い」と答えて、「しかし、本当に自由にされた人は人を殺したりしない」との会話を書いていたと思います。(この会話が誰と誰のものだったか覚えていませんが)イエス・キリストが与えてくれた自由は、パウロにとっては、ユダヤ教の律法からの解放・自由であって、それはイエス・キリストの憐れみ深い愛、人を大事にする思いによって、イエスが私たちに寄り添って下さって、私たちが生きる事への解放です。この頃、この「憐れみ深い」を「いつくしみ深き」と言い換える事を考えています。このイエス・キリストの「いつくしみ深き」を、イエス・キリストの「霊」と言い換える事ができます。イエスの慈しみ深き心は、今も私たちに向かって働いて下さる霊なのです。

 

 

 

 ガラテヤ書5章16節では、「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい」とパウロがガラテヤの信徒に勧めています。このキリストの霊に従って歩むその結果、つまり、霊の結ぶ実が、「愛」、隣人への「愛」となるように歩む事です。それを具体的に表現して、それは隣人との喜び、平和、寛容,親切、善意、誠実、柔和、節制という事です。これが霊の結ぶ実なのです。ガラテヤの教会に愛が、喜びが、誠実が、寛容が、親切が、善意が、誠実が、柔和が、節制が戻ってくるようにとのパウロの願いです。霊に従って歩み、そのような霊の結ぶ実をパウロは願い期待しているのです。それは隣人を愛するようにという事ですが、皆様ご存知のルカ福音書の善きサマリア人の教えで、イエスは私たちに「隣人になるように」と教えられたのです。「隣人になる」とは、他の人々の、苦しんでいる人々の、弱く小さくされた人々の、「痛み」を知る事、「痛み」を共感する事です。

 

 

 

 ただ、私たちにその共感が何処まで出来るのでしょうか。自分で分かろうとしても限界がありますし、先ず、感じよう、分かろうという気持ちを持てるかどうか、ちゅうちょと言いますか、立ち往生する気持ちです。そこでパウロは、25節で「私たちは霊に導きに従って前進しましょう」と言うのです。イエス・キリストの「霊」、スピリットに従うのです。イエス・キリストの「霊」スピリットに導かれなければ、私たちは他の人々の、隣人の痛みは、分かりません。私たち夫々が、誰の隣人になるのか、それは、各人が決める事ですが、「隣人になりなさい」は、イエス・キリストのご命令、最も大事な「掟」なのです。世の人々、私たちが直接に知る人々、さらに、直接には知らないけれど弱く小さくされている人々も隣人です。私たちが生きて生活するのに、私たちが直接知らない人々の働きが在って、私たちは生きています。直接には知らない人々も、「隣人」なのです。その方々の存在に「無関心」であってはいけません。「愛」の反対は「憎しみ」とよく言われます。しかしそれが横の関係の事であれば、縦の関係では、「愛」の反対は「無関心」なのです。隣人に無関心ないならないように、イエス・キリストの霊スピリットのお働きを願う祈りがあります。

 

 

 

 喜び――私の喜び、だけでなく、弱く小さくされている人々の喜び、その方々と共に喜ぶようにとイエスの霊スピリットは導いてくれます。平和――私たちの平和だけでなく、弱く小さくされている人々の平和、そしてその方々との平和が実現するようにとイエス・キリストの霊スピリットは導いて下さいます。「寛容」、私たちが他の人々に寛容で在る前に、私たちは弱く小さくされている人々の「寛容」に預かっています。寛容な心に預かっています。その他、親切、善意、誠実、柔和、節制も同じです。弱く小さくされている人々の、親切、善意、誠実、柔和、節制に私たちは預かっています。それがイエス・キリストの霊スピリットが結ぶ実なのです。

 

 

 

 話の最後に、十戒の一番最後を紹介したいと思います。第十戒。「隣人のものを一切欲してはならない」。(新共同訳、聖書協会共同訳)「すべて、隣人のものをむさぼってはならない」。(口語訳)

 

これを、裏返せば、自分だけの豊かさを、平和を、寛容を、親切を、善意を、柔和を、誠実を、節制を求めるべからず!なのです。それがイエス・キリストの霊スピリットなのです。イエス・キリストは、ご自分だけの自由、喜び、平和を求められませんでした。アーメン