「働き手のために祈ろう」   2019年6月2

 

  マタイ9:35~38   招きの詞ルカ10:1~2

 

 皆さま、お早うございます。梅雨も近いようですが、その前に教会組織会議・感謝礼拝を終わる事が出来て感謝です。連盟加盟のための資料を事務所に送りましたが、今の所、大丈夫のようです。先日からトランプ大統領を迎えて、日米同盟の絆の強さをアピールしていますが、犯罪もアメリカ並みになっています。日本では刃物ですが、アメリカでは銃の乱射です。沖縄の基地問題も沖縄だけに負担を掛けたままで、夜間を含めた航空機の騒音は益々酷くなっているし、夜間訓練の申し合わせも全く守られていません。その他、様々な分野で格差は大きくなるばかりで、小さく弱い者たちは放り出されています。

 

 

 

 のぞみのこれからの大きな課題は働き手の問題です。働き手とは牧師と先ず考えますが、無牧師の教会も多くなるばかりで、特に東北以北の地域では無牧師の教会がかなりあります。今年の西南大神学部牧師コースの入学者はゼロです。国内の多くの事業で人手不足が言われていますが、牧師になろうと決断する若者が決定的に居ません。なり手がいないのです。のぞみだけの問題では無く、キリスト教会全体の問題です。これからの教会は牧師中心では存続できなくなりそうです

 

 

 

 教会の働き手、働く人は様々です。教会の仕事は、掃除、お花、奏楽、それに説教ですが、最近は送迎も大事な仕事になっています。どれも大事ですが、中心は説教でしょう。これまでは、説教中心で、牧師中心の教会の姿が強かったと思います。礼拝出席者の方々が、礼拝が終わり、雑談や帰りの道すがらに、「今日は良いお話で恵まれましたね。祝されましたね。」という受け身の姿勢でした。説教を批判するとか、意見を言うなどはとんでもない事でした。のぞみでは早くから、説教への応答の時間を持っていましたが、これも初めの頃は批判されていました。この頃は、質問が出たり、個人の意見が語られたり、かなり自由な応答ができる様になりました。牧師も人間で、その語る事は「神ががかり」を装っても、個人の信仰です。少し神学や語学を勉強していても、それで信仰が完全になるわけではありません。

 

 

 

 私も、先週、この題を付けた時には、働き手=牧師でした。しかし、私は最も大事な働き手の事を落としていました。主イエスのお働きは、もちろん最も大事なことですが、私たち人間の側での働きを考える時、私は最も大事な働きを抜かしていました。皆さまは、それは何だと思われますか?それは民様方、聞いて下さる方の事です。聖書からの主イエスの言葉を聞いて下さる皆さまが、大事だという事です。主イエスの言葉を受けて、皆さま方、お一人おひとりが、主イエスに仕える働き人、働き手になって頂く事です。つまり、私たち一人ひとりが、主イエスに従う生き方をする事なのです。様々な場面で、そして日常生活で、主イエスに従う働き手になる事です。その働き方が豊かに大きくなる事を、或る神学者は「聖化」と言いました。

 

  

 

ここで言われる「聖化」は、教会の中や教会への奉仕、献げものに関する事だけではありません。教会の外、日常の生活での事が、どちらかと言えば、大事なのです。私は、毎日何時間も祈っている、毎月これだけの献金をしいる、礼拝も祈祷会も欠かさず出席している、といった事が、「聖化」の根本問題ではないのです。日常、私たちが生きる中で、主イエスに如何に仕え、働き人になるか、なのです。

 

 

 

 それは、イエスが弱く小さくされた人々に仕えて下さった事に倣う、また、隣り人を自分自身のように大事にしなさいという掟に従う事なのです。私たち自身が弱く小さい者です。だけど、小さくて弱いから何もできません、何もしません、ではないのです。私たちの自力で弱く小さい方々に仕える事、それがどれだけ大きな事が出来ても、それは「聖化」には繋がらないのです。主イエス・キリストに従いつつ、共に歩んで頂きながら、先に立って進んで下さるイエスに従いつつ、主イエスの掟に従う、そこが「聖化」の基本なのです。自力ではなく、主イエスのお力を頂きながら歩む、つまり、日常を生きる事なのです。

 

 

 

 私たちに命を注いで下さった、先に立って歩んで下さる主イエスのお力、命を頂きながら、つまり、主イエスにお導きと御祝福を祈りながら歩む、ここに主イエスに従う働き手、働き人の生き方が在ります。

 

 主イエス・キリストに従う良き働き手になれるか、新しく教会になった、私たちの大きな課題だと信じます。

 

 主イエス・キリスト お導き下さい。アーメン