「腸ハラワタがちぎれる想い」       2021年1月24日

  マタイ14:13~14  招きの詞 ヨハネ12:24~26

 

 皆さま、お早うございます。先週アメリカのジョー・バイデン新大統領が就任しました。二人目のカトリックの大統領で、ファースト・ネイムは、ジョーゼフJosephです。つまりイエスのお父さんの名前のヨセフさんなのです。一人目はケネディさんで、彼はジョンJohn でしたので。ヨハネさんでした。バイデン氏は熱心な信者だと言われています。これからは中々難しい道を歩む事になりそうです。先週は「罪人を招くためにわたしは来た」というイエスの言葉からお話をしました。「罪人」の具体的なイメージを、気仙沼の山浦先生が訳した「ガリラヤのイエシュー」から、紹介しました。イエスは人々を招くと言いながら、山々を越えて遠方の一人で悩んでいる人たちを訪ねて行き、慰め、励まし、希望の言葉を掛け、また癒しの手を差し伸べられました。イエスがガリラヤの貧しい人々に出会った場面の一つが、先程読みました「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ」という箇所です。この「深く憐れみ」を「腸ハラワタがちぎれる想いになられた」と訳された方が居ます。今朝はこの訳語を中心にお話したいと思います。

 

従来は「深く憐れむ、憐れむ」と訳して来ました。口語訳は「彼らを深く憐れんで」、ギャロット先生訳「深い憐れみを抱き」、文語訳「これを憐れみて」、フランシスコ会訳「哀れに思い」、田川建三先生訳「彼らを憐れんだ」となっています。この「憐れむ」という言葉は、お腹の内臓を表す言葉です。そこで、岩波版のマタイを訳した佐藤研先生は「彼らに対して腸ハラワタがちぎれる想いに駆られた」と訳しました。また時々利用する本田神父は「おおぜいの民衆を見て、はらわたをつきうごかされた」と訳しました。佐藤先生と本田神父は、どちらが先なのかは、微妙でちょっと今は分かりません。共にお腹に衝撃を受けた訳です。大勢の人をイエスは見て、受けて衝撃が如何に大きかったか。英語では、compassion pity などが使われています。com は「一緒に」の意味ですが、passion は「情熱」と思われ易いのですが、元は「苦難」の意味です。The Passion と言えば、イエスの受難の事です。ですからcompassionは「苦しみを一緒に」の意味です。ドイツ語にも Mitleid と訳されたものが在りますが、Mit は「一緒に、共に」の意味で、Leid 「悲しみ」の意味で、「共に悲しむ」の意味があります。イエスが大勢の人々に出会った時に、どんな話をされたか、マタイ5章の有名な「山の上の教え」では、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と訳されて来ましたが、気仙沼の山浦先生は、「頼りなく、望みなく、心細い人は幸せだ。神さまのふところにシッカリと抱かれるのはその人たちだ」と訳しました。

 

イエス・キリストは、現在も腸ハラワタがちぎれる想いをされているのではないでしょうか。今の世の中、悲しい事やどうしてなのかと思う事がたくさん在りますね。コロナで仕事が無くなり、収入が無くて、今日の食事にも困っている人々がたくさん居られますが、政治家は高級ナイトクラブで深夜まで遊んでいる。日本の或は世界のいろんな事を見られて、腸ハラワタがちぎれる想いになっておられるかもしれません。例えば、中村哲先生も、アフガニスタンでやはり腸ハラワタがちぎれる想いに駆られたのではないでしょうか。寒さと飢えで震えている子供たちや大人を見て、或は汚い水を飲んで、死ぬ子供たちを見て、そんな想いになられた事でしょう。

 

ハラワタに強い衝撃を受けて、イエスは何をされたでしょうか。中村先生は、井戸を掘り用水路を掘りました。イエスは何をされたか。そこに書いてあります様に、五千人に食べ物を与えられました。この後には四千人に与えられた話も出て来ますので、そんなに大勢の人に食事を分けられたのです。天国の話や復活の話ではなく、今生きる為の食事です。「食事をしよう、一緒に食べよう!」とパンを配りました。つまり、この世で生きる事へと導かれたのです。一緒に生きる道へと導かれたのです。どんなに苦しくても、ここを何とか乗り越えて前に進む、その為に今は、少しでもパンを食べる出来事を起こされました。何かし神さまとか天の国とか、律法の話とかではなく、「さあ一緒に食べよう」という出来事を起こされました。「私は命のパン」(ヨハネ6:48)だと言われた通り、命をつなぐパンを分けられました。

 

イエスは貧しいガリラヤの人々を見て、腸ハラワタがちぎれる想いに駆られたのですが、私たちはどんなでしょうか。「ああ~、可哀そうだな」という気にはなりますが、その先はどうでしょうか。腸ハラワタがちぎれる想いには、先ずなりませんね。それで良いのでしょうか。その事を振り返りますと、イエスはそんな私たちを見て、尚また、大事な事をす~っと通り過ぎる私たちを見て、「ハラワタがちぎれる想い」になられておられるのではないでしょうか。時々、心配になります。悲惨な状況や人々を見ても動かない私たちを見られて、腸ハラワタがちぎれる想いになられるのではないかという気もします。確かに私たちは、イエスの様にはなれません。しかし、イエスが祈っておられる事、気にかけておられる事、この人々に今日を生き抜き、明日が在ります様にと祈って居られる事に、私たちも預かる、そのお気持ちを分けて頂く、その様に祈る事は、出来ると思います。私たちが腸ハラワタがちぎれる想いになれなくても、イエスのお心に預かることは出来ます。イエスの祈りを分けて頂くことは出来ると信じます。私たちは中村哲先生を尊敬しますが、先生の様にはなれません、と、自分で勝手に決めている所が在るかも知れません。中村先生の腸ハラワタがちぎれる想いの1万分のに預かる事は、出来るのではないでしょうか。先生の気持ちを分けて下さいという祈りは出来ないでしょうか。祈ろうとしていないのではないしょうか。

 

 

イエスがガリラヤの貧しい人々を見られた時のお気持ち、お心を分けて頂こうという祈りをしないのでしょうか、出来ないのでしょうか。それは私たちの覚悟次第で出来るはずです。私たちは何のために生かされているのか、毎日、何を願って生きているのでしょうか。イエスがそのお心に留めて、気にかけておられる事と、全く関係なく、生きても良いのでしょうか。日々、生きている中で、何かしら、イエスのお心に少しでも添って、生きようと願うことは、出来るはずですし、また、キリスト者で在る限り、しなければならないと思います。それが、イエス・キリストに従う者、イエス・キリストに倣う者になった私たちの当然の務めではないでしょうか。キリスト者になった意味は、その事に在るのではないでしょうか。その決断は出来るし、決断しなければなりません。それをしないで、イエス・キリストに従う者だと、名乗る事は出来ません。「お前は、何をしているのか」と、イエスが私たちひとり一人に眼差しを向けておられると信じます。私たちに出来る事をすれば良いのだよ。「さあ、貴方も行って、同じようにしなさい」(ルカ10:37)と、今、私たちに声を掛けて居られます。その時、私たちが、明日に向かって今日を生きる意味が生れると信じます。主イエスよ、お導き下さい。