「群衆を見て、深く憐れみ」         2019年7月21日  

 

ルカ6:20~23  招きの詞マタイ14:13~21

 

 

 

 皆さま、お早うございます。大雨の被害は皆さまの所では無かったでしょうか。線状に雨雲が連なって、同じ所に集中して長時間大雨が降るので、大きな被害に繋がる様です。自然の力に対して私たちは何もする事が出来ません。ただ、受けるしかないのかなと思います。それと歴史上と言いますか、人間社会もいろいろと事件が頻発しています。また、連盟理事会から来られて、のぞみの信仰告白に聖書は神の言葉だという告白が無い事を指摘された話は先週も致しました。(聖書を手に取って)これは確かに聖書で、神の言葉と言えば、言えるのかも知れませんが、ただ文字だけを指して神の言葉と言えるのだろうかと思います。例えば、先ほど読んで頂いたルカに「貧しい人たちは、幸いである」と書かれていますが、本当に私たちは貧しい人たちに「幸いだ」なんて言えるでしょうか。これが神の言葉で在るとは受けとれない、または受け取りたくないですね。神がそんな風に思っておられるはずがないと思います。でも、日本語聖書はここをず~っとその様に訳して来ているのです。群衆の貧しい姿をどの様に想像されますか。その当時の極貧の人たちの姿ですが、マタイでは「心の貧しい人々は」とも書かれています。イエスが出会ったガリラヤの人々は心も生活もとても貧しい状況だったのだと考えられます。

 

 

 

 そう考えますと、現代でも貧困状況に落とされている人々も心、精神が貧しい状況になってしまっています。ですからいろんな事件が起こります。包丁を振り回す人も居ますし、アメリカでは銃の乱射事件です。その様に精神的に谷間に落ちた様な人々を「幸いなるかな」ととても言えないです。今訳されている様には読めないと思います。決して神のみ心ではないと信じます。でも日本語では殆どその訳なのです。ヨブが神に向かって「主よ、どうしてなのですか」と問い掛けたように、私たちもまた、神に「どうしてこれが、幸いなのですか」と問い掛けながら、読むべきではないでしょうか。今日は参議院の選挙ですね。現在の政治は国民が谷底に落ち込んでいる姿を全く見ていない、どうしたら良いのか分かろうとしていないと思えます。だから多くの人が希望を何処にも見いだせない状況です。もう死ぬしかない。どうせ死ぬなら他人も一緒に、と関係ない人々を巻き込んでしまっています。そこで昔、吉本隆明氏が国は幻想共同体だと言われた事が在ります。国が一つだと思うのは幻想だ、と昭和の戦争中の状況を含めて言われました。今も正しく幻想共同体の姿ではないでしょうか。そしてその幻想共同体から利益を受ける人たちが、その状況を創り出し、それを守っている様に思えます。軍隊を作って、つまり国民の多くの人々の犠牲の上にその利益を守ろうとしています。そこまで進んできていると思われます。政治の問題をここで論じるのはここでの課題ではありませんが、のぞみの小さな群れの共同体がどんな状態なのか、どんな群れを目指すのか、そこは私たちに問われています。

 

 

 

 イエスがこの群衆を見た場面を、「飼う者がいない羊の群れの様な姿を見て」と書かれている箇所も在ります。ですから群衆の姿を貧しい身なりだけ想像しても駄目だと思います。ですから現代の問題でも、飼う者がいない羊の群れの姿としても見るべきでしょう。同時に歴史の中に、飼う者がいない羊の群れの様な群衆の姿を見るべきです。また、この言葉から私たちはどの様に聖書を読むべきかと考えなければなりません。この聖書を神の言葉として読むためには、神のみ心、イエスのお導きの中で読むべきだと信じます。「心の貧しい人々は幸いである」という言葉ですが、本田神父は「心底貧しい人たちには、神からの力がある。天の国はその人たちのものである」と訳しています。ルカの「貧しい人々」の方は、「貧しい人たちには、神からの力がある。神の国はあなたがたのものである」と訳しています。岩波版の佐藤先生はマタイの方を「幸いだ、乞食の心を持つ者たち、天の王国はその彼らのものであるから」、ルカの方を「幸いだ、乞食たち 神の王国はそのあなたたちのものだから」と訳しています。

 

聖書協会の新共同訳は今までの新共同訳と全く同じです。

 

 

 

 こんな訳で、聖書は貧しい事、心が貧しい事、精神的に落ち込んでいる事、乞食で在る事を肯定している様に見えます。差別され搾取されていた人々の存在を肯定している様にも思えます。昔アフリカからの黒人の人たちはアメリカ南部の綿畑で奴隷としてこき使われていました。その人々にはどこにも希望が無い。朝起きてから暗くなるまで働かされて、疲れ果てて死んでしまう。その様な仲間への悲しい思いのジャズとかブルースとかできましたが、その中に「聖者が街にやって来る」という曲をご存知と思います。これはWhen the saints go marching in という題名で、死んだ仲間たちを聖者と讃えて、彼らが天国に行進していくという意味です。マーチングインをマーチニンと聞こえますので「聖者が街にやって来る」と全くの誤訳ですね。黒人たちが死んで天国に行く希望しかない状況だったのです。その事を「宗教はアヘンだ」とカール・マルクスが言いました。25才の時の「ヘーゲル法哲学批判・序説」で、「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つンは現実の不安に対する抗議である。宗教は、悩める者のため息であり、心なき世界の心情であるとともに、精神なき受胎の精神である。それは民衆のアヘンである」と書いているそうです。

 

 

 

 黒人たちが全く希望を持てない中で、唯一神の国に行けるという事が希望だったのです。現実は朝から晩まで働いて、主人の白人たちは富を享受していたのです。こう見て来ますと、貧しい人は幸いだというのを神の言葉として受ける事には問題を感じます。神は決してその様には思っておられないと信じます。「深く憐れみ」と訳されていますが、イエスが貧しい人々の姿を見て「憐れんだ」の様に読めます。しかし、ここは前にも主介した様に「ハラワタに響く様な衝撃を受けられた」と受け身なのです。イエスが深く憐れんだのではなく、痛みを受けられたのです。ですから、貧しい人々プトーコイを幸いだとするのではなく、神のみ心を受けながら聖書を読むべきだと思います。それはイエスがガリラヤに行かれた、貧しい人々の中に身を置いた事から読み取るべき事だと信じます。この「貧しい人々は幸いだ」と、文字通りに読む事では決してないでしょう。その様に私たちも歴史や現実の中に隠された状況、つまりガリラヤの状況を見るべきではないでしょうか。また、その様に聖書を読むべきだと思います。

 

 

 

 マタイの「心の貧しい者たち」の事を佐藤先生は「乞食の心を持つ者たち」と訳しているのを紹介しましたが、ここも単に物乞いをする人たちの姿を思い出すだけではなくて、沖縄の戦後の歴史の中で、米軍が基地を拡張するために、農民たちの土地を強制的に取り上げました。農民の人たちは困り果て、抗議のデモ行進をしました。それを日本のメディアは「乞食の行進」と報道しました。それが本当の事なのでしょうか。それを「幸いなるかな」と決して言えないと思います。その状況が沖縄では未だ続いています。聖書が神の言葉である事は、聖書を、神のみ心を受け、イエスからの聖霊の働きを受けながら、読ませて頂く時に、私たちに希望を与え、生きる事を励まして下さる「神の言葉」になるのだと信じます。アーメン