「信じます。信仰のない私をお助け下さい」 

                                                                                                              2019年7月7日  

 

マルコ9:20~27    招きの詞 マルコ14:27~31

 

 

 

 皆さま、お早うございます。今朝初めてのぞみの礼拝に出席して下さった方、キリスト教の礼拝は初めてですか。そうではないのですね。そして皆さま、よく出席して下さいました。感謝です。今朝はお休みの方が多くて、いよいよ少ない感じですが、しっかり主イエスのみ言葉を聞いて参りましょう。のぞみが教会になって一カ月ほどが経ちました。教会のこれからを考えなければなりませんが、同時に私たちの信仰の初心、キリストを信じる事になったきっかけをまた、新たに検討すべきだとも考えます。私たちの信仰とは、私たちが信じている信仰の事です。ペトロの場合の記事を読んで頂きましたが、ペトロが大祭司の庭でイエスの事を「知らない」と言った有名な個所です。ペトロはイエスを裏切らないと一生懸命語ったと思います。「たとえ私が死ななければならなくなっても、私はあなたから離れません」と必死でイエスに訴えたでしょう。でもやはり実際にはイエスを知らないと言って終いました。私たちも自分では「信じている」と思っているのですが、何かの時にはそれが吹っ飛んでしまうのです。私たちの信仰はそれ程確かなものではないのかも知れません。

 

 

 

 「私がイエス・キリストを信じる」という「私が」という部分を今朝はマルコの記事から考えて見ました。子どもが悪霊に取り付かれた父親が何とか助けたい、助けてほしいとの強い気持ちから、イエスの所にやって来ます。その時父親が「お出来になるなら」と言います。この言葉はすごく遠慮した言葉なのだと思います。出来るか出来ないかを尋ねたわけではないでしょう。それに対してイエスが「『出来れば』と言うのか」と言って、「信じる者には何でも出来る」と言われました。この信じる者は単数ではなくて、信ずる者たちと複数で、信じているなら誰でもという感じです。この言葉は、イエスがこの父親の心に割って入られた言葉だと思います。それで父親は「信じます!」と言って終ったのです。「信仰のないわたしをお助け下さい」と矛盾する様な言葉ですが、これは考える時間も無くて言って終ったのだと思います。それはイエスがこの父親の心の中に割って入ったからだと思われます。イエスがその様に言われたのは、この父親がこれまでどれ程悲しみの涙と流したか、その父親の心をご存知だからその様に言われたのです。父親がこれまでにどれ程の涙をながしか、その心を察せられたからです。子どもの苦しむ姿を見て、また死ぬかもしれないと思わずにいられなかった親の気持ちを分かっておられたからです。その父親の心の中にイエスが割って入られたと読ませて頂いています。

 

 

 

先週火曜日にNHKのプロフェッショナルという番組が在りました。この番組はご存知でしょう。先週は新津春子さんという方の番組でした。この方の事は4年前にも在りました。羽田空港を掃除する掃除のおばさんです。羽田が世界でも最も清潔な空港として4年連続で選ばれていますが、その陰で働いている方です。今では道徳の教科書に写真入りで載っているそうです。今でも新津さんは掃除の現場に居られます。今では空港だけではなくて、一般家庭の掃除にも出かけて、床を必死に磨いたりしておられます。彼女は4年前と基本は変わらないで、掃除をする場所が自分の居場所だと思っておられます。今では高給で外国からのスカウトも在るそうですが、全部断って名誉も地位も要らないと言われますが、ただ掃除の現場が自分の居場所だと言われます。しかし、彼女は変わらないようで、「自分も進化しなければならない」と言われます。だから空港だけでなく一般家庭から様々な場所で掃除に取り組んで「進化」を考えておられるのです。

 

 

 

彼女の事をご存知と思いますが、中国残留孤児と言われた父親と中国人の母親との子供さんです。中国に居る時は「日本人は帰れ」と言われ、日本に帰って来ると「中国人は帰れ」と言われていじめられます。お父さんたちも帰国後、仕事が中々無くて、高校生の時から掃除のアルバイトをして家計を助けて来て、今も掃除の仕事をしています。この彼女もこれまでどれ程の涙を流した事でしょう。沢山の涙を流して来られたはずです。その彼女が「たとえ掃除の仕事といえども、自分は進化しなければならない」と言って、自分の成長を努力して居られます。この心に本当に打たれた思いです。私もイエスを信じていると思っているのですが、「進化」しているのでしょうか。イエス・キリストに近くなっているのでしょうか。父親がつい叫んだ「信じます!」という言葉は、父親が考えた末に発した言葉ではないと思います。「信仰のない私」だと言っているのです。イエスに触れた時に、そう叫んでしまったのです。イエスが私の心に割って入って私の心を分かって下さったからです。私の心をイエスがご自分の心として受けて下さったからです。その事が分かった瞬間に父親は叫んだのです。

 

 

 

そう考えますと、この「信じる」は出来事なのです。信仰は普通、自分が考えて調べて学んで、「信じる」という気持ちになる、或は「信じる」という事になるのでしょうが、この父親の場合は「出来事」なのです。叫んでしまったのです。父親が考えた末の事ではありません。瞬間的に起こった出来事だと信じます。振り返ってみれば、私たちの信仰も、私が信じたという気持ちも勿論在りますが、やはりイエスによって引き起こされた事、出来事だったのではないかと思います。私の信仰は決して私が信じたのだと強調出来ないと思います。イエスからの恵みとして私が頂いた「信ずる」という事ではないでしょうか。猪城先生がご存命中に入って居られた「アサ会」では、「御受けミウケの受け」という言葉を使います。「御受けミウケ」とは、イエスが私たちを受けて下さる事で、私たちを受けて居て下さるイエスを私たちが受ける事です。

 

 

 

最も大事な始まりは、イエスが私たちを受けて居て下さる、その御受けミウケを感謝して私たちが受けさせて頂く、この様に信仰をアサ会では教えています。私たちに仕える者となって下さって、私たちを受けて居て下さる、この事に導かれて私たちが信じる事になるのです。この父親がイエスに受けて頂いたのです。イエスが子供と父親との全てをご自分に引き受けられた、その事を先ほどは、イエスが父親の心に割って入って下さったと申しました、それは父親の心をご自分の心として受けて下さったことでもあります。私たちを受けていて下さるイエス、この事に依って、私たちは信じる方向へ導かれるのです。信仰とは考えた末にとか、調べた結果に依って起る事では無くて、私たちが主役ではなくて、イエスに依って起こされていく出来事、これが私たちの信仰です。私たちが生きている一番の底をイエスが受けていて下さる、イエスに依って支えられている、私たちが何をしようと、私たちを受けて支えていて下さる、私たちが悩んでいる時も喜んでいる時も、悲しんでいる時も、私たちの全ての時をイエスが受けていて下さる。この父親の悲しみをイエスが受けていて下さる、それが引き金となって父親が信じますと叫ぶことになりました。

 

 

私たちの場合も、全く同じような仕方で、私たちの心の中に割って入って下さって、「信じなさい。信じる者には何でもできる」と語って下さった、そこから導かれた「信じます」だったのです。この場合にも、私たちの場合にも、働きかけて下さったのは、イエス・キリストです。アーメン