「神の子なら、飛び降りたらどうだ」  

                                                                                  2018年12月16日

 

マタイ4:1~7    招きの詞 申命記6:1~5、16

 

 

 

 皆さま、お早うございます。今日からもうアドベント第3週です。次週はいよいよクリスマス礼拝です。クリスマスメッセージをあれこれ考えていますが、今朝は、イエスが悪魔の試練に遭われたマタイでは第2、ルカでは第3の試練です。マルコにも出て来ますが、どんな試練であったかを全く書いていません。素っ気ない程です。福音書記者それぞれに何か言いたいことが違うのだと思います。マタイは(旧約)聖書に書かれている事を大事にしています。「神があなたのために天使たちに命じると・・・」は詩編91:11に出て来ます。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」は申命記6:16に在ります。旧約の神は力強い神、万軍の主という書き方ですが、イエスはその逆で、貧しい馬小屋に生まれた話から始まる訳です。本当に貧しい歩みをされました。ガリラヤで村々を回る時も、杖以外は袋も何も持って行くなと言われました。何故なら、訪ねて行く先の人は極貧の人々でしたから。寡婦の献金の寡婦の様に、本当に僅かなお金しか持っていませんでした。イエスは相手と同じレベルで出会う、その様に心掛けられました。

 

 

 

 サタンの「神の子なら、飛び降りたらどうか」という誘惑に対してイエスは、「主なる神を試してはならない」という言葉でサタンに「ノー!」と言いました。今朝はここを考えてみました。私たちは「主なる神を試す」なんて、そんな大それたことはしないと普通は思っています。ところが私たちが祈る時にどんな態度で祈っているか。難しい問題の解決を神に頼んだり、神を試す様な祈りをしていないでしょうか。それがどんなに善意に満ちて、隣人のために、犠牲になった人々のために、と言いながらも、どこか神を試す様な祈りをしている様にも思います。逆に自分の信仰の大きい小さいをあまり考えませんが、イエスは「芥子種一粒ほどの信仰があれば、あなたがたに出来ない事はない」(マタイ17:20)と言われました。

 

私は芥子種一粒ほどの信仰は在るよと思いがちです。中には祈った事が実現する事も有ります。例えば、此処から帰る時は「どうぞ、お守りください。アーメン」で帰るのですが、先日七隈で車にぶつかりそうになりました。信号の変わり目で、前の車が、信号を突っ切る様に加速したのですが、急に止まったのです。バイクは滑りそうになり、やっと泊まりました。ぶつかっていたら、今は頭に包帯を巻いて、タコのハッチャンのようになっていたでしょう。家に着いたら、「アーメン、感謝」と言いますが、当然、守って下さいよと言っているのです。時には「そうはいかんぜよ」という事も多いと思います。

 

 

 

 「芥子種一粒ほどの信仰があれば」というイエスの喩えも普通では無い気がしますが、「なんでもできる。出来ない事は何も無い」というのもまた非常に極端で、人間に対して教えられる事とは思えませんね。そんなことを聞くと人間はすぐ増長してしまうかもしれません。そこはあまり「過信してはいけない」のでしょうか、頼み事を平気ですることが多いです。ところが、やはり頼み事が先になるような祈りではなくて、ここまで導いて下さった事への感謝を忘れています。「さあ、帰りますから」と、そちらに目が向きます。今日一日を振り返って感謝ですという言葉が無いのです。でも私たちに「頼みごとをするな」というのも、おかしなことです。その事も許されていると思いますが、でも「御心ならば」という言葉を付け加えて、「イエスのお力に依って、お願いします」という頼み方が有るのではないでしょうか。隣人の為やどんなに善意に満ちた頼み事で在っても、「御心に覚えて下さい」という気持ちで祈るべき事ではないでしょうか。「主なる神を試みない」ためには、「御心に覚えて下さい。そして、御心ならばお願いします」と、自分が祈るのだ、という態勢ではなくて、イエスが此処に居られて、イエスも共に向って下さる様に、という願いをすべきだと思います。私が祈る、というのではなくて、主よ、御心に覚えて、お先立ち下さいと、芥子種一粒ほどの信仰も無い、その自覚の下に、主よ、どうぞ導いて下さい、覚えて下さい、という祈り方になるのではないでしょうか。

 

 

 

私たちは自分の祈りに酔ってしまう、自分の祈りの中で思ってしまう、それが多いのだと思います。祈っている自分の熱心さ、熱い祈りがありますが、そこは冷めていなくてはならないのです。冷めているとは、イエスが先に向って下さる様にと覚える、お願いする祈りの仕方のことです。自分は冷めているのです。どんなに熱い祈りをしようとも、イエスが先立って下さることを覚える事です。お願いする時には、自分の力では出来ないから、という事もあるのですが、「イエスが先にそこに向って下さる様に」という事が飛んでしまっています。冷めているとは、イエスが主であるという事です。その中の私たちの願い、イエスの力にお願いなのです。逆に私がどんなに乏しい信仰で在ろうとも、どんなに私たちが貧しくても、イエスは私たちに祈りを教えて下さったと思います。「祈る様に!」と励まして居て下さる。これが、イエスのご降誕の意味の一つだと信じます。

 

 

 今日は「主なる神を試してはならない」との言葉から、では、どんな祈り方をしたら良いのか。「祈りなさい」という事と、「この様に祈りなさい」。主を試す様な祈り方ではなくて、真に主にお願いする、その様な祈り方を教えて下さった事が、イエスのご降誕によって起こった出来事の一つだと信じます。同時に、イエスご自身も、人の低みに降りて、低みの中でご自身が祈っていて下さる、祈りを教えて下さると同時に、私たちに先立って祈っていて下さる、この事のために、イエスはこの世に降って来て下さったのだと信じます。私たちの間に宿って下さったのだと信じます。「主なる神を試してはならない」。でも、芥子種一粒ほどの信仰があれば、何も出来ない事は無い、これは本当に極端な言葉ですが、私たちに祈る様にと、励ましを与えて下さる、迫って下さる、見えない程の信仰かも知れないけど、「祈りなさい。私も祈っているよ」という出来事となっているのです。主イエスのご降誕による励ましを心から感謝 アーメン