「平和の道具 Ⅳ 汝の敵」     2018年9月16日

 

   ルカ6:27~36     招きの詞ローマ12:13

 

 

 

 皆さま、お早うございます。今日の題は平和の道具の最後になるかとも思いますが、「汝の敵を愛せよ」、これが平和の元ですよね。ところが、いま聖書を読んで頂きましたが、とてもこんな事は出来ないです。大変な事です。これが私たちに希望を与える福音なのかどうか、その様には私も未だ読めません。でも平和の問題には敵の問題を外せません。先日、前沖縄県知事の翁長氏が亡くなられましたが、海外からはその戦いぶりを称えるコメントが有ったようですが、我が国の総裁は一言も述べていません。政策に大きな違いが有り、対立して来ましたが、やはり沖縄の代表者として奮闘された事へのコメントの一つも出さない事は、総裁という立場の品格の欠如だと思います。「汝の敵を愛せよ」という言葉は、欧米ではクリスチャンでなくても知られた言葉でしょうし、日本でも「敵ながら、あっ晴れ」とか、「敵に塩を送る」という事も在る訳です。自分と意見が違い、立場が違うけど、闘い合う、説得し合う、というかそんな気持ちが無いのでしょうか。

 

 聖書に話を戻しますと、旧約では神は「万軍の主」なのです。全部の軍隊の頭でした。つまりイスラエルの軍隊が最強なのだという意識でしょうか。ダビデがペリシテ人を殺す話は、「サウルは千、ダビデは万」という歌を歌いながら踊ったと在ります。万軍の主、つまり、敵を滅ぼすのが旧約の神です。そして一時期、ダビデ王国が栄えましたが、息子ソロモンで終わりです。あまりに奢り高ぶったからでしょう。南北王国に分断し、北は攻められて早く滅びてしまいます。ローマに南も段々小さくされて、イエスの時代にはヘロデ・アンティパスが王ではなく、領主でした。ユダヤの民はダビデの様

 な強力なメシア、神に祝福の香油を塗られた者を待ち望みました。今でもそうでしょう。現代イスラエルは強力な軍隊を持っています。

 

 ところが、イエスはどうでしょうか。ペトロが貴方はメシアだと告白しますが、決してダビデの形には成られませんでした。逆にガリラヤという非常に貧しい人々が多い所を訪ねて、そんな人々を癒し励まされました。最後はピラトに依って「ユダヤ人の王」として殺されました。ピラトが何故その様にしたのか、何も書かれていません。イエスがこの「汝の敵を愛せよ」の掟を与えられた場面を見たいと思います。今のページの右側の下の段です。「おびただしい病人をいやす」という見出しが有って、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」とあり、また其処に多くの民衆が来ます。そしてマタイでの「山上の教え」が語られます。少し違う部分もあります。そんな中で「あなたの敵を愛しなさい」と言われました。本田神父は「あなたたちに敵対する人たちを大切にし」と訳されています。例の気仙沼の山浦ドクターの訳は「敵であっても大事にせよ」です。いずれにせよ、私はそんな事は出来ないです。

 

 敵と言っても、いろんな状況が考えられます。この頃よく、人が刺されます。今、人を刺そうとしている人を見て、「敵を愛しなさい」とは言えないです。新幹線の中で、人を刺そうとするのを止めに入って、亡くなった方もいます。戦いや争いを避けなさいとも取れますが、ベトナム戦争が有りました。知らない世代も多くなりましたが、その当時、平和を訴える「べ平連」が有りました。「ベトナムに平和を!市民連合」の略だったお思います。多くの学生や知識人が参加しました。その時、吉本隆明氏は「他から侵入されて、どんどん奪われていく中で、それと戦う権利は無いのか」と問題を提起しました。自分たちを守る、しかしここが難しいのです。世界中の軍隊は皆、「守る」を詠っています。アメリカは「国防省」、日本も「防衛省」です。でもアメリカは世界中で戦争しています。

 

 その一環として沖縄に米軍が駐留して、沖縄の人々苦しめています。イエスは本当にご自分も敵を大切になさったのでしょうか。だから、つまり、敵を愛するが故に殺されたのでしょうか。そうは思えません。迫害される側に身を置かれたが故の死だったと思います。そのイエスが教えられた最も大事な掟は、「主なる神を愛し、あなたの隣人を愛しなさい」でした。父なる神にお任せする、御心を大事にするという神への信頼の中での十字架だと思います。先ずは自分の生き方を神にお任せするという道を選ぶ。ここにポイントが在ると思います。「あなたの敵を愛しなさい」はマルコ、ヨハネにはありません。私たちは先ずは自立して、人に迷惑を掛けない様に生きる事、その際に問題が在れば、お互いに助け合う事、この事をイエスに教えられています。本当に「敵を愛する」ことが出来れば、平和になるでしょう。でも、平和とは何か、平和をどう理解するか、争いの中でも自分たちを守る事は赦されることなのか。

 

 そう簡単に守れる掟ではありませんし、この掟に真に従う事は難しい問題で、いま、この掟をイエスの福音として解釈出来ません。しかし、最後に私の結論は、ガンジー、キング牧師たちの「無抵抗の抵抗」、非暴力の抵抗です。大英帝国に対して、その抵抗を貫きました。キング牧師もバス・ボイコット運動などから始まりました。抵抗しないのではありません。非暴力で行う、これも「あなたの敵を愛しなさい」につながる大きな事ではないかと思います。いま沖縄で讃美歌を歌いながら反基地の闘いをしている人々が居ます。神の御心に背く様な事には非暴力の抵抗をして良いと信じます。難しい掟ですが、イエスが貫かれた生き方も、父の御心を生きる非暴力の抵抗だったと信じます。イエス・キリストの十字架、アーメン