「イスカリオテのユダは何故?」       2020年11月1日

 

ヨハネ12:4~8   招きの詞マルコ14:18~21

 

 

 

 皆さま、お早うございます。昨夜は、月に2回満月になる2回目のブルームーンでした。必ず見ようと思っていましたが、やはり見損ないました。この次は3年後だそうです。今朝は新約聖書に登場する謎の人物についてご一緒に考えて見たいと願っています。旧約ではヨブでしょう。そのヨブは神の目にも正しい人として始まります。しかし、ユダはイエスに選ばれた12人の一人なのですが、イエスを裏切ったとされています。イエスはユダの裏切りをご存知で選んだのでしょうか。彼は何故登場するのでしょう。ルカ福音書では、イエスが荒野で40日、試練に遭いますが、イエスを懐柔し損ねたサタンは「時が来るまで、イエスを離れました」。(4:13)しかし、22章で、「十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」のです。最初に書かれた福音書はマルコですが、十二人を選ぶ場面は在りません。マタイでは10章に十二人を選ぶ場面が在って、「イエスを裏切ったイスカリオテのユダである」と出て来ます。ルカでも十人を選んで、「使徒」と名付ける場面が在ります。「それに後に裏切り物となったイスカリオテのユダ」が出て来ます。

 

 

 

 ユダはイエスを裏切ったと出て来ますが、そんな人をイエスは何故選んだのでしょうか。元々そんなに悪い人ではなかったのではないかとも思います。人を殺したわけでも在りません。ユダは祭司長たちと取引に出かけますが、彼はイエスに隠れて出かけたのではないですかね。それをイエスは知っているのです。過越しの食事の場面でイエスは、「この中の一人が自分を裏切る」とはっきり言います。どうしてイエスは分かったのでしょうか。イエスは人々の罪を赦すために十字架に架けられたのだとすれば、その十字架に至る事件の引き金を引いたユダは神のご計画の中にあるのでしょうか。しかし原始教会の人々はそうは考え無かった様です。昔、使徒行伝と言いましたが、「使徒言行録」の中に、ペトロが皆に報告する話が出て来ます。不正なお金で買った地面にユダは真っ逆さまに落ちて、酷い形で死にます。どこから落ちたか分かりませんが、ユダの最後はペトロに依るとすごく悲惨な最後です。でもイエスが引き渡されて殺される事は、マルコでも三回、予告しています。ユダがした事はそんなに極悪人のする様な事でしょうか。

 

 パウロは自分を「罪人の頭」だと言い、実際に、多くのキリスト者を迫害し殺しています。ユダは「罪人の頭」ではないのでしょうか。でも、高い所から落ちて死にます。イエスの救いはユダに及ばないのでしょうか。私がこんな事を心配するのは、私自身もイエスに従うと言いながら、どこか裏切っている、すぐイエスの教えを離れてしまう、そんな自分を思うからです。「面従腹背」、つまり、おもて面ではイエスに従うふりをしていますが、ふく腹では背いている事を表す言葉です。私にこんな事が実際に在る気がします。パウロは律法を守る事ではなく、イエスを信じる事で救われると言います。しかしユダにはイエスを信じるチャンスが無かったのです。イエス・キリストへの救いは彼には及ばなかったのでしょうか。何とか救われて欲しいと思いますが、ユダの死は悲惨な死です。しかし、思いますとイエスの死も悲惨な死です。十字架にかけられ、手足を釘打たれ槍で刺されて、死ぬのに何時間も掛るのです。しかし父なる神はイエスを復活させられました。ユダの死に復活は無かったのでしょか。ここでの正しい答は何でしょうか。皆さま方はどう思われますか。問題提起しか出来ません。

 

 

 

 それでは申し訳ないので、イエスはユダに何か救いの様な事が出来たのかと考えたいと思います。所で、イエスは律法学者たちから「なぜ、罪人たちと一緒に食事をするのか」と批判されました。イエスは言います。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9章)。罪人と呼ばれるガリラヤの貧しく弱い人々の不安や痛み、病を分かって、それを担って下さる、そのためにイエスはこの世に来て下さったと言います。ここにイエスの福音が在ると思います。しかし、この事で終わりではないとこの頃思います。イスカリオテのユダが今のこの言葉で救われるのでしょうか。貧しい人々、罪人と呼ばれる人々の事を担って下さる事は分かります。しかし、この時、どこかイスカリオテのユダを救いの外に追い出してしまってはいないでしょうか。

 

 

 

 イエスはそこ迄徹底して救いの手を差し伸べて居られると思います。ではどんな仕方でしょうか。言うなればこのイスカリオテのユダは不条理な人生を送ったのです。「生まれない方が良かった」と言われました。サタンに影響されたかもしれません。神の摂理にも適っていない様な生き方をせざるを得ませんでした。「生まれて来なかった方が良かった」のです。結局私の事になるのですが、私は救われて欲しいと願います。イエスの十字架で多くの人が救われるのなら、そのキッカケを作ったユダが救われない、何かそれで良いのかと思ってしまいます。貧しい人々支えるために来られたという事の、もう一段低い所の出来事が、十字架の上での「我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」という叫びです。自分が殺される事は分かっていたのに、十字架の上で「私をどうして見捨てたのか、神様!」と叫びます。これが救い主の叫びでしょうか。この叫びこそ、マルコが本当に伝えたかった事だと思っています。その姿をローマの百人隊長が「本当にこの人は神の子だった」と証言するのです。

 

 

 

 イスカリオテのユダは高い所から落ちて死ぬ瞬間、「神様、どうして私をお見捨てに名のですか」と叫んだかも知れません。そのユダの叫びをイエスが十字架の上で叫ばれた事、ここにイエスのより深い救いが在ると信じています。パウロもキリストを殺しました。「なんで私を迫害するのか」とイエスが言うのですから、キリストを殺したのと同じ事なのです。そのパウロは「イエスを信じて救われる」と言って、救われているのです。ユダもイエスを裏切って、悲惨な死を迎えます。裁かれたのです。でも、このイエスの「矛盾そのものの言葉」によって、矛盾したユダも救われたと信じます。矛盾です。パウロも矛盾です。イスカリオテのユダも矛盾です。

 

 

 

いろんな疑惑が在ったでしょう。最大の問題は彼がイエスを引き渡した事です。しかし其処から始まった十字架の出来事で人々が救われたのです。そのユダに何の救いも無い。イエスよ、それで良いのですか!と私はイエスに言いたいのです。イスカリオテのユダに手を差し伸べて下さい、あなたのために苦しんだのですから。私はそうお願いしたい。私たちの教会生活でも様々な事が在ります。良かれと思っても、そうは受け取られない事も日常茶飯事です。さらに私が気になるのは、イエスを知らなかった人々です。イエスを知らない事は罪なのでしょうか。イエスを知らない人々の為にも、イエスは死んだのではないか。その人々が「神様、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ぶ時に、イエスも一緒に叫んで下さる。人としての究極の叫びを叫ぶイエスは、不条理で矛盾した人生を生きた人々にも手を差し伸べて下さる、そう信じています。主イエス アーメン