「希望を持って忍耐する」         2019年8月4日 、 

 

第一テサロニケ1:2~8 招きの詞使徒言行録17:1~9

 

 

 

 皆さま、お早うございます。猛暑の中、よく来て下さいました。お休みの方々も居られますので、この八月を何とか乗り切りたいと願います。八月は平和を祈る月ですが、先週、奨励する者も変わらなければと申しましたので、今まで苦手だったパウロ書簡からも学ぶ努力をしたいと思います。所が、パウロ書簡では日本語の訳にいろいろ問題が在ります。説明するとかなり面倒になります。今朝はテサロニケ第一を選びました。テサロニケが何処に在るかご存知でしょうか。聖書巻末地図8をご覧ください。パウロの伝道旅行の第二次、第三次の地図です。当時、テサロニケはマケドニア最大の都市でした。今は北マケドニアという国です。非常に良い港で、アジアに繋がる重要なルートの港でした。パウロは今のトルコの方を伝道して回りますが、途中、アジア州での宣教を聖霊に禁じられ(使徒16:6)、マケドニア人がこちらに助けに来てくれという幻を見たので、マケドニアへ向かいました。フィリピで宣教の後、テサロニケに向かいます。

 

 

 

 所が、そこには既にユダヤ人たちがたくさん居ました。ユダヤ人は商売が上手で、地中海世界に散らばっていました。そのユダヤ人たちからクリスチャンは迫害されます。(使徒17:1以下)テサロニケやフィリピの信徒たちはヨーロッパ人として最初にキリスト者になったわけです。パウロも伝道しますが、迫害されて脱出してアテネ経由でコリントに行き落ち着きます。そこへテモテがその後のテサロニケの様子を報告に来ます。迫害にも関わらず信仰を強く持っていました。そこでパウロは手紙を初めて書きます。このテサロニケ第一の手紙が一番最初の書簡だと言われています。紀元50年から51年頃、イエスの十字架刑から20年経たない時期です。マルコ福音書が紀元70年代とされていますので、それよりも20年以上前になります。ユダヤ人たちからの迫害は続いていました。ですからテサロニケの信徒たちは、イエスの再臨、つまり終末を強く望んで、何時なのかという問いを持っていましたので、それに答える形になっています。苦しみの中で早くイエスが来て下さる事を願っていたでしょう。

 

 テモテの報告を聞いて、再臨の事と激励の言葉を書いたのです。今朝は再臨の事を脇に置いて、私たちもパウロの励ましの言葉を受けたいと願い、1章3節を選びました。この3節は短いのですが、元のギリシア語から、かなり意訳されています。訳した人の信仰によって解釈されているのです。新共同訳を読んでみましょう。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、私たちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の前で心に留めているのです」。昨年12月に出された聖書協会共同訳はこう訳しています。「あなたがたが信仰の働きを示し、愛のために労苦し、また、私たちの主イエス・キリストに希望を置いて忍耐していることを、絶えず父なる神の前に思い起こしているのです」。この様な訳に影響を与えたかもしれませんが、英語のGood News Bible は「how you put your faith into practice(どの様にあなた方が自分たちの信仰を実行しているか), how your love made you work so hard(どの様にあなた方の愛があなた方を非常に労苦させたか), and how your hope in our Lord Jesus Christ is firm(そしてどの様にあなた方の主イエス・キリストへの希望が確かであるか)と訳しています。 

 

 

 

 ここを直訳するとこうなります。新共同訳と比べながらお聞き下さい。「絶えず思い出しています。あなた方の信仰の業と愛の働きと、あなた方の主イエス・キリストの希望に留まっていることを。私たちの父なる神の御前で」。「絶えず思い出しています」が、最初です。「愛のために労苦し」も単純に「愛の働き」です。それから「主イエス・キリストに希望を置いて忍耐している」と、あなたがたがイエスに希望を置いていると解釈できる訳ですが、「あなた方の主イエス・キリストの希望に留まっている」です。この辺は訳す人の信仰に依るのです。「私たちの信仰」を大事にする、それは無くてはなりませんが、それが一番大事だと聞こえます。テサロニケの信徒たちの信仰が強いから迫害を耐えていると読めます。元は「イエス・キリストの希望」なので、ここをどの様に解釈するか問題です。

 

 

 

パウロの他の手紙でも問題になるのは「イエス・キリストの信仰」(直訳)です。日本語では「イエス・キリストを信ずる信仰」と口語訳も新共同訳も協会共同訳も訳しています。これは全く間違いとは言えません。例えば「これは私の写真です」の「私の」という所有格の解釈です。一つには「私を写した写真」ですし、「私が写した写真」でも在りますし、「私が持っている写真」でもあります。解釈で全く変わります。ここがパウロの手紙を読む時に難しい問題なのです。今までの日本語訳は「イエス・キリストを信ずる信仰」と訳しています。「イエス・キリストの希望」を「イエス・キリストに対する(あなた方の)希望」と訳しています。私は「イエス・キリストが下さる希望」と受け取るのが私の信仰の基本的な姿勢です。ここを私なりに訳してみます。「私たちの父である神のみ前で、絶えず心に覚えている事は、あなた方の信仰による業、愛に依る働き、そして私たちの主イエス・キリストが与えて下さる希望に留まっている事です」。私たちが持っているイエス・キリストへの希望」と解釈されている所を、やはり「イエス・キリストが与えて下さる希望」と主語をイエス・キリストに置きたいです。

 

 

「イエス・キリストが私たちに仕え、導いて下さる」と主語がイエス・キリストな

のです。確かにテサロニケの信徒たちはユダヤ人の迫害にも拘わらず、その信徒た

ちが希望を持って忍耐して頑張っているわけです。しかし、それを支えている「

エス・キリストからの希望の中に留まっている」からなのです。主イエス・キリス

トが与えて下さる、導いて下さる、その希望の中に私たちが留まるのです。希望は

何処から来るのか。私が考え出し導き出した希望ではなく、神から「信頼しなさ

い」と来る希望、イエスから与えられる希望なのではないでしょうか。私たちが信

仰を持つ事は大事です。でも私たちに信仰を与えて下さるのは神であり、イエス・

キリストなのです。皆様方お一人おひとりにご苦労が在り、悲しみが在り、喜びが

在り、悩み絶望が在るでしょう。それを心の持ち方を変えて、自分の心を掻き立て

て、希望を必死で持つのではなく、イエス・キリストからの力に満ちた希望に支え

られるのです。時にはそう簡単には来ません。でも本当の希望は何処からなのか。

今朝のテサロニケの言葉をどの様に理解するのかに依って、大きく変わります。主

イエス・キリスト お導き下さい。