「神の国(天の国)はどこに在るのですか」

                                 2020年10月11日

 

ルカ17:20~21   招きの詞ルカ23:39~43

 

 

 

 皆さま、お早うございます。先日の召天者記念礼拝で、「死んだら天国に行くと言われているが、天国ではなく、イエス・キリストが居られる所に行くのだ」と申し上げた事で、知子姉は失望を感じられたようで、申し訳なく思っています。ただ、天国という言葉が、今日では世間一般に、あの世、彼岸、仏教の浄土までも含んで。口にされる様なので、その事を、聖書的に、もっと正確にしたかったのです。

 

「天国」は文語訳、口語訳で、「天の国」は新共同訳、本田神父訳で、新改訳聖書は「天の御国」、岩波版では「天の王国」と訳されています。「天の国」は「神の国」と同じ意味で、マタイ福音書で用いられています。

 

 

 

 聖書には二つの「天」が出て来ます。一つは「主の祈り」(マタイ6:9)に、「天におられるわたしたちの父よ」(ルカには「天」は在りません)、当に父なる神が居られる所です。英語は heaven です。もう一つは、創世記の1:1「初めに神は天地を創造された」です。この「天」は神が創造された被造物ですから、主の祈りの「天」とは違います。英語のGood News Bible は、主の祈りを Our Father in heaven と訳し、天地創造の方は the universe and the earth と訳し分けていますが、新欽定訳はおなじheaven です。この意味で神が居られる「天(の国)」と星や太陽の「天」とが聖書の中でもごちゃ混ぜになっています。その原因は、ギリシア語訳にあります。作ら得た天も「ウーラノス」で、主の祈りの天は、同じ言葉の複数形です。

 

神が居られる「天」を例外的に表現したのが、ルカの十字架刑の場面です。イエスが二人の犯罪人の内、一人に「はっきり言っておくが、あなたは今日はわたしと一緒に楽園にいる」と言われた「楽園パラダイス」です。エデンの園がパラダイスです。この言葉は新約聖書では第二コリント(12:4)と黙示録2:7にしか出て来ません。このパラダイスは語源は古ペルシャ語で、「囲まれた場所」です。

 

 

 

 神はどこに居られるのか、居られたのか、という問いは、日本では東日本大震災であれほど多数の人々が死んだとき、多くの人が心に思った時でした。80年程前に、ナチスがポーランドに侵入した時、多くの反ナチスの人々を殺しました。多くの場合、見せしめの意味も込めて絞首刑でした。子供も老人も容赦なく皆殺しにしました。或る時、13才位の少年も殺されますが、体重が軽かったので、30分以上ももがき苦しみました。この光景を見た人々も「神はどこにいるのか」と口にしました。その時、神は天国に居られたのでしょうか。そんな冷たい神の国、天の国なのでしょうか。大東亜戦争の時、日本兵は人命軽視の作戦の犠牲になりました。この時、軍の指導者は兵隊に、国の為に死んだら、英霊となって靖国神社に帰ってくると信じさせ、兵士は「靖国で会おう」と言って、戦死して行きました。

 

 

 

 カトリック教会も、お金をたくさん集めて、壮大な大会堂、天主堂を建てました。ゴシック建築と言って、天を目指す尖塔の会堂です。今でも教会はどこもこの尖塔を持ちますが、それが無いのはこののぞみ教会位でしょう。そして司祭たちは豪勢で豊かな生活をしました。ついにお金が足りなくなって、免罪符を売り出します。お金を箱に投げ入れて、チャリ-ンと音がしたら、天国の門が開いて、天国に行けると宣伝したのです。皆さんはその様に信じますか。神の国、天の国とはそんな所なのでしょうか。天の国に入るためには、洗礼を受けて教会に属して、クリスチャンで在る事が絶対条件の様に言われて来たと思います。そして神に仕える事と、教会に仕えて奉仕する事が、巧みに結び付けられて来ました。そんな文化遺産はたくさん世界中に、そして、五島の様な地の果てにも、立派な天主堂が残っています。教会を通って手の国に行く、その様な信仰が、長く教会の大きな流れでした。プロテスタントも含めて、教会は本当にイエス・キリストの福音を受けているのでしょうか。

 

テロ、

 

 

 

 この問題は、イエス・キリストの福音が、教会の外の世界の出来事、特に悲劇的な、戦争、テロ、自然災害などの被害者、被災者の方々に、どの様に役に立つのかの問題でも在ります。イエス・キリストは何処に居られて、何をして居られるのでしょか。ルカ17:20~21には、「神の国は、見える形では来ない。『ここに在る』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」とイエスが言いました。口語訳では「あなた方のただ中に」で、ギリシア語はエントスという言葉です。元々は「人の内側に、心の中に」という意味の様ですが、今では英語その他を含めて、「人々の間に」の訳が好まれています。ナチスに殺された少年の場面で、「神は、この少年と共に吊るされている」という声が聞こえたそうです。大震災で「、津波に流されている人と共に流されている」とこの頃言われている様です。

 

 

 

 私たちは、イエスキリストの贖罪によって、罪を赦され天の国に行くのだと聞かされて来ました。弱く小さくされている人々の事は、関係ないのでしょうか。自分の救いの事だけが大事なのでしょうか。勿論、弱く小さくされている人々の為に、真剣に祈らなければなりません。キリスト者の第一の務めだと信じます。しかし、祈る事で良いのでしょうか。済むのでしょうか。何のために私たちは生きているのか。死は私の人生の終りの意味しかないのでしょうか。そして、天の国に行く事が神の恵みなのでしょうか。

 

 

 

そこで、ローマ14:8をご紹介します。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」というパウロの言葉です。死ぬのは私たちが天国に行くためではありません。「生きるのも主のため、死ぬのも主のため」だとパウロは言います。この言葉を、先週、礼拝説教をして下さった、福田昌治先生から教えて頂きました。生きるのも、死ぬのも主のためと私たちが自覚するとき、その時、主イエス・キリストは、私たちと共に生きて、死んでくださるのです。その時こそ、その所こそが「神の国」、「天の国」なのではないでしょうか。宇宙の何処か彼方に神の国、天の国が在るのではありません。今、主イエス・キリストは傍に居て下さいます。アーメン