「神からの言葉」        2018年12月9日

 

マタイ4:1~4     招きの詞ヨハネ1:14~18

 

 

 

 皆さま、お早うございます。クリスマスアドベント第2週ですが、本当に寒い日々を迎える事になりました。真夏日が在ったり、この異常気象でこの世の中、どうなるのでしょうか。自然現象もですが、人間の世界もどうなるのかなと案じます。この状況を見ながらクリスマスのメッセージを考えたいと思います。「言葉は肉体となってこの世に住んで下さった」という事がどういう事なのか、それをマタイのサタンとの戦いを参考にしたいと思います。マタイは「悪魔」と呼んでいます。イエスが40日40夜、荒野で悪魔の試練に遭った、これがどういう事なのか。40日も食べなかったイエスに「石ころをパンに替えて食べたらどうか」と試みます。するとイエスは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのだ」と言います。天の高い所は、神の世界です。神の世界は人間の世界と違うでしょう。バルト先生はカトリックの神学を批判して、「神は絶対他者」として神を捉えました。絶対他者が私たちの細かい所がお分りにならないだろうから、私たちを大事に思って下さる神は、どうしても私たちと共に生きる事によって、私たちの様々な状況を分かって下さるのでしょう。しかもただ分かるという事だけではなくて、私たちが生きている事に対して、道筋を示して下さったり、神の言葉によって生きる、その事を示して下さいました。

 

 

 

 先週の看板は「人は食べ物だけで生きるのではなく、神の言葉によって生きる」という言葉にしていました。動物的な命はパンが必要ですが人間としての生き方には、食べ物だけではないと、悪魔との戦いの中でそれを示して下さった事が、何を意味するのか。人間は石ころをパンにして食べる様な事をしているのかもしれません。出来ないこと、石ころをパンにする、そんな事を人間はしているのかも知れません。石ころをパンにして食べたい、そんな状況にまで落ち込んでいる人々が居るのではないでしょうか。「これがパンならなあ~」と思ってしまう人がたくさん居る。それを福音書は「ガリラヤ」と呼んでいると思います。ガリラヤでイエスが出会った人々は「プトーコイ」と言われる極貧の人々でした。今日食べるパンも無い。あの寡婦の献金の話でも、持っていたのは銅貨2枚、今の価値では20円でしょうか、それが全財産でした。とても食べて行く事が出来ない、そんな状況です。

 

 

 

 石ころをパンにして食べたい、そう思う程の状況を人間が作り出しているのだと思います。或る人々が他の人々犠牲にして豊かに食べている、人の物を奪って食べている、それも石ころをパンにして食べている事と同じだと思います。他者の物を取って食べる、そして自分は豊かだと思っているのかも知れません。それは許される事ではないと思いますが、人は元々神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのだとイエスは言います。少し単語の説明をしますと、「言は肉体となって、わたしたちの間に宿られた」の時の「言」はロゴスという言葉ですが、「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」という時には、このロゴスは使われていません。「一つ一つ神が語られる事に依って」と書かれています。「神が語られる事」は単数形で、それに「全ての」も単数形なので「神の口から出る一つ一つの言葉」と訳されているのです。「石ころをパンにして食べる」これを人間のどんな状況なのかでしょうか。私はこれを、「人は戦争をしてでも食べる」という事で考えてみたいと思います。今、世界中が富国強兵の道を驀進しています。お互いに競い合っています。

 

 

 

 自衛隊は世界8位に強いそうです。7位が韓国だそうですが、これを決めるのも難しい話です。軍事費をドンドン増やしています。しかし、弱者に向けての予算はどうなのでしょう。そこで今考えるべき事として憲法の問題があります。ここで政治の話をし過ぎてはいけませんが、日本は戦力を持たないと決めたのに、自衛隊が出来て、これを「戦力を持たない」という憲法の中に入れると安倍総理は言います。自衛隊は戦力ではないと言いながら、米軍を始め、アフリカその他で、共同作戦を実施しています。他国の「軍隊」と一緒なのです。自衛隊は日本を守ると言いながら、他国も守ろうとしています。例えばフィリピン、ベトナム、インドなどへ護衛艦を派遣して、その国の防衛に一役買うようです。世界中が富国強兵になっていく流れを、そのままで良いのか、これは石ころをパンにして食べる、事ではないのか。石ころを食べると必ず死にます。戦争をどんなに美化しても、最後は「死」です。この状況に私たちはどうしたら良いのか、しっかり考えるべきだと思います。

 

 

 

 これに対して「神の言葉によって生きる」という事もまた考えなければなりません。私たちが困った時には助けて下さるという言葉を先ほど、詩編の言葉を交読しましたが、本当にそうなのでしょうか。神の言葉で生きる、とはいわゆる民主主義を支える言葉ではありません。民主主義では多数が問題です。でも、99匹の羊よりも1匹の羊が大事だとイエスは言われます。決して民主主義ではありません。1匹の羊の命が大事なのです。その羊は進むにも後ろに下がるにも危険な状態に在る訳でしょう。それを羊飼いが見つけて助け出す、その時にはとても大きな喜びが在る、とイエスは言います。そしてそれは天に於いても大きな喜びが在る、という事につながっていると思います。この迷える羊を助け出すためにイエスがこの世に来られたのかも知れません。このままでは死に至る状況です。その羊が助け出される場合も在ると思いますが、そうでない場合もたくさん在るわけです。前回はボンヘッファーの例を出しましたが、必ず助けられて生き貫くとは限りません。

 

 

 

 1匹の羊が死に至る、それはイエスがそうであったと思います。1匹が助かるとは限らない事を、神の子イエス自身が1匹の羊を守るために命を投げ出した、と考えたいです。でもその1匹の羊が崖から落ちて死んだ。その場合には聖書は其処から先へは進めないのでしょうか。私はその1匹の羊が死んだ、そこから始まる言葉が在ると思います。聖書に1匹の羊が死んだ話は在りませんが、「一粒の麦が死んで」という言葉が在ります。「一粒の麦が死んだら、豊かに実を結ぶ」という有名な言葉です。クリスチャンと呼ばれる人々に大きな迫害が在りました。かなり古くから、パウロも迫害に遭っています。多くの人々が死にました。一粒の麦の話は、単に一般的な話ではなくて、沢山の迫害の中で亡くなった、或はその直前に居るクリスチャンたちに向けての言葉であると思えます。私はこの「一粒の麦が死んだならば」というのと、「1匹の羊が死んだならば」という事を同じではないかと思います。

 

 

 「死」によって多くの実を結ぶ、とイエスは言います。ボンヘッファーに対して申し訳ないですが、彼が亡くなったのですが、私たちに大きな感動とこれから生きる指針を示されます。それは「生きる」という事が「死」を避ける事が出来ない、その事を現していると思います。1匹の羊が「死なない様に」という事も在りますが、「一粒の麦が死んだ事によって」という教えも在ります。これは「石ころをパンにして食べる」という事に対して、イエスが「ノー!」と言った、これが「私たちの間に宿られた」事の働きの一つだと思います。戦争してでも食べよう、という事に対して、「ノー!」と言う。他者のものを奪って豊かに食べる、そんな生き方をするべきではない、「一粒の麦の死」によって豊かに実を結ぶのだという言葉は、悪魔の「石ころをパンにして食べる」ことを拒否されたイエスの姿勢につながると信じます。これを天の高い所で言ったのではありません。私たちの間で生きる中で、ガリラヤのあの極貧の人々の間で、「人はパンだけで生きるのではない」という言葉が、人が生きる事への励ましであり、ご自分がその只中で生きる事を貫く、その事が「言が肉となって、私たちの間に宿られた」事に依って、私たちの間での出来事なのです。石ころをパンにして食べる、{ノー!}、人の物を取って食べる、「ノー!」、人を殺してでも食べる、「ノー!」、神の言葉によって生きる事は、悪魔・サタンとの戦いで在る事を、イエスの言葉に教えて頂きました。イエス・キリスト アーメン