「思いを巡らすマリア」 2020年1月26日
田中 聞多兄
ルカによる福音書2章19節
わたしには、以前から気になっているいくつかの聖書の言葉がある。その一つが、今朝テキストに選んだ、ルカによる福音書2章19節の「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて思い巡らしていた」である。
「思い巡らす」と言う英語は「Ponder」である。重さの単位「pound」と同じ語源である。思い込むと心も重くなるということであろうか?
マリアは男の子を出産した。
羊飼いたちがこの光景を見て、天使がこの幼子について話してくれたことを人々に告げ、聞いた者は皆羊飼いたちの話を不思議に思った。多分大騒ぎになったろう。
身の回りで起きる喧騒をよそに、母マリヤは、飼い葉桶の中で安らかに眠るわが子を見守りながら、その子について語られたすべての言葉を心にとめて、思い巡らせていたのである。
天使ガブリエルの受胎告知を受けたときと、ヨハネを懐妊している従妹のエリサベトを訪ねたときのマリアは、極度の気分の高揚の中で、自分の身に起きた事を受け入れて、あの有名な「マリヤの賛歌」を残している。
ところが今、マリヤは、母となった現実の中で、これまで自分の身に起きた出来事や、わが子について語られた全てのことを思い巡らせて、胸騒ぎがしているのである。
八日後、割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられて、両親はその子を主に捧げるためにエルサレムに連れて行く。
そのときエルサレムの神殿には、シメオンという老預言者がいて、イエスを腕に抱き、神を讃えながらもイエスの両親には謎めいた預言をする。
2章34節… シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
(35節)――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
こんな不吉ともとれる挨拶を受けると、俗人ならショックを受ける。
マリヤは、自分の身に降りかかってきた運命に戸惑い、心が重くなったのではなかろうか。
その後、マリアとヨセフはガリラヤのナザレに帰って、幼子は逞しく育ち、知恵に満ちて神の恵みに包まれていたと書かれているが、過ぎ越し祭でのエルサレム神殿でのイエスの言動などのこともあり(2章39~50節)「母はこれらのことをすべて心に納めて」思い巡らせては、わが子の行く末に一抹の不安を感じていたのではなかろうか。
ルカによる福音書3章では30歳代に入ったイエスが登場し、ヨハネから洗礼を受け、そのとき「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた(3章22節)」と書かれている。
ルカ福音書には、その後イエスの系図が書かれている(3章23~38節)。
ここまで見てきたマリヤは、思いを巡らすことの多い女性で、カトリックで崇める聖女のイメージとはほど遠く、どこででも見かけそうな女性である。そのような平凡な女を神は、御子イエスの母として選ばれた。
話の後半は、「処女降誕」について、キリスト教独立学園高等学校校長の武祐一郎先生の「高校生と学ぶ使徒信条」の中から要点を紹介して、私たちの「処女降誕」についての立場を確認するための問題提起としたい。
「使徒信条」では「主は聖霊によりてやどり、乙女マリアより生まれ」とあるが、これをキリスト教では短く「処女降誕」と言う。即ち、イエスは系図の上ではヨセフとマリアの息子となっているが、本当は聖霊により懐妊したという教えである。
クリスチャンはこの教えに対して、それを信じるか信じないかのどちらかの立場を選ばなければならない。
「処女降誕」を信じられないという人たちの言い分…
1。 他の宗教などの影響を受けてできた神話であり、だから真剣に信じる必要はない。
ギリシャ神話や仏陀の出生に纏わる話などいろいろある。
2。 キリストの死と復活や再臨とは違い、処女降誕はキリスト教の中心的な教えではないから、信じられない人は信じなくてもよいという考え方。
確かにキリスト教の中心はイエスの十字架と復活と再臨である。イエスが処女から生まれなくても十字架の死と復活と再臨があればいいという考え方は古くからある。
福音書の元となったマルコ福音書にはイエスの出生のことは何も書いてない。ところが、4福音書には十字架と復活については中心的なこととして書いてある。だからイエスが処女から生まれたかどうかということはどうでもよいという人がいる。
3。 非科学的であるという言い方。
処女降誕は非科学的なのか?
科学で説明できないことは非現実的なことで、歴史上の出来事及び自然現象として起こっていることは全部科学で説明できるという考えの人がいる。
現在の生物学では人間の処女降誕はなかったというのが常識かもしれない。
しかし、これは処女降誕は非科学的という否定論が真理であるということではない。
神があるとかないとかは科学では絶対に言えない。処女降誕についても、生物学上は起きる確率は極めて少ない、しかし、歴史上たった1回起こったイエスの処女降誕が絶対になかったと否定してしまうことはできない。これが科学の限界だと思う。
武 祐一郎先生の立場…
わたしは今「処女降誕はそのまますんなりと受け入れなさい」と勧めておりわたし自身今、聖書が言うとおり、そのまま処女降誕を受け入れていると告白する。
創世記の天地創造や、アダムとイブの話は物語であると割り切って教えている。物語を通じて重大な心理が語られている。
しかし、処女降誕については聖書に書かれている通りわたしはいま信じているし、信じることが大切だと強調する。処女降誕が信じられないで、イエスの復活と再臨が信じられようか?
北森嘉蔵先生に倣って、わたしも旧約聖書の始めの話などはお札を透かして読むようにまた、新約聖書、特にイエスについての箇所は、印刷されている文字をそのまま読むように勧めている。
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