「誰が罪を犯したからですか?」     2020年年5月17日

ヨハネ9:1~5     招きの詞 ヨハネ6:26~27

 

 改めまして、皆さま、お早うございます。お変わりなくお元気でお過ごしでしょうか。今日は5月第3主日で、昨年第3主日(19日)に教会組織を致しまして、最初の記念日です。新緑fresh green のとても美しい季節に教会になったのだなと、自然に恵まれた時を感謝します。雅子姉も言われていますが、もし今年、教会組織を計画していたら、とても実現しなかったでしょう。これも主イエスのお導きであると信じ、また感謝しています。主イエス・キリストこそ、私たちの希望であると思わざるを得ません。主イエスが私たちの希望であるとは、私たちは主イエスに導かれ共に歩んで頂きながら、未来に向かう事だと信じます。私たちは未来に向かって歩むのです。勿論、過去に学ぶ事は大事です。人間は過去の大きな悲劇を幾つも乗り越えて来ています。また新たな悲劇を生み出さない様に、過去の失敗に学ばなければなりません。私たちはイエス・キリストを主として、主に従い行く気持ちを持っています。しかし、その主イエス・キリストを、私たちは先ず、そして最終的に聖書から教えて頂くのです。その聖書を読み、学ぶ時、何が大事なのでしょうか。

 

 よく、素直に聖書を読もう!と言われます。しかしこの素直にとは、何に対して「素直に」なのでしょうか私は小学生の頃、よく先生から「もっと素直になれ」と言われていました。私がひねくれて捻じれていたからでしょうか。「素直に」とは、時の思想の流れや国の政治の流れに対して、「従順である」とか「従う」という意味にもなると思い素直にとは、何に対して「素直に」なのでしょうか。また、自分がいつの間にか身に付けた考え方感じ方を固定する事にもなりそうです。それをしっかり自覚する必要が在ると思っています。私はもう一つ、「謙虚に」という言葉を大事にしたい。自分の思いも大事にしなければなりませんが、「傲慢」であってはいけません。謙虚に学ぶ、人の意見を聞く事も大事だという事です。恩師猪城博之先生は、歴史を学ぶ事の大事さを常々言われていました。そして歴史に対する感覚を養う事の大事さも言われました。そこから「預言する事」も必要だと言われました。これからどうなるのか、私たちは今、ここで何をしなければならないか、自覚して生きる様にと教えて下さいました。歴史を謙虚に学び、聖書の読み方を謙虚に学びたいと願います。

 

 

 

 今朝の聖書の個所に進みます。ヨハネ9:1~5です。この場面はエルサレム神殿の傍の通りです。イエスは通りがかりに、生まれついて目の見えない人を見かけます。そこで弟子たちが、「この人が生まれつき目が見えないのは、」誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」と、一見ごく自然な質問をします。昔よく言われていた因果応報の考え方ですね。当時としては、ごく自然な考え方、質問です。今で言う「自己責任」なのか、それとも「親の因果が子に報い」なのかと尋ねます。ところが、イエスはその質問自体を否定する様な事を言われます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と言われ、そして、「神の業がこの人に現われるためである」と答えられました。このことについては、後で戻って来て考えましょう。弟子たちが質問した「誰が罪を犯したかですか?」と原因を尋ねる事は、よく在る事ですし、ある程度は必要な事です。熱が在る。どうして?コロナウィルスに感染したのかな?と原因をはっきりさせる必要があります。病を治すためにも、病を拡げないためにも。でも、この問いは突き詰めれば、答える事が出来ない問いなのです。

 

 

 

 コロナウィルスに感染したと分かれば、「何処で、どんな時に」となります。それが分かると「三密」避ける様にとなります。そこまでは必要です。例えば、或る人が癌に罹ったとします。医学的に原因を調べる事は大事で不可欠な事です。しかし、どうして、この人が、今この時に、という問いは答えが難しいです。大震災や大水害の時、「あの人は犠牲になったけど、どうして私は犠牲者にならなかったの?」と、助かった人は自問自答の渦の中に巻き込まれて終います。この問いは「神よ、どうしてですか?」という人間の究極の問いに至のです。イエス自身がこの究極の問いを、十字架の上で神に突き付けられました。今朝は、この点はここまでにしたいと思います。「神の業がこの人に現われるためである」とイエスは答えられましたが、神がご自分の力を示すために、この人の目を見えなくされたのでしょうか。この人を不幸にされたのでしょうか。少し神が意地悪な方に思えますね。

 

 

 

 この3節の言葉のギリシア語文法は、普通にはその様に「~のためである」と訳が出来る形です。しかし、それと同じ文法の形が、その前の2節「この人が目が見えないで生まれたのは」という文章も、全く同じ構文なのです。そこで調べて見ましたら、ギリシア語辞書には、この2節を「結果」を示すと、分けています。3節はよく見られる「目的」表現なのです。2節はあまり見かけない表現です。言葉の難しさを思います。文法として、別に分類できるし、便宜上も別にするでしょう。でも、何故同じ構文で反対の事を表しているのでしょうか。聖書を読む事の難しさと、同時に、謙虚に学ぶ事の大事さを思います。今は文法問題から、今朝の個所のポイントとして、それに続く4節以下を注目する事になると申し上げたい。

 

 

 

 「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日の在るうちに行わなければならない。だれも働くことができない夜が来る。わたしは世にいる間、世の光である」と、イエスご自身が、この世のために、いま働かなければならない、神の業を果たさなければならないとイエスは言われて、イエスご自身の覚悟をはっきり語られている事です。「わたしは、この人が目が見えないで生まれて来た原因を誰かの罪のせいには、しないし、出来ない、でも、原因がどうで在れ、とにかく、この人が見える様に、今、自分が働かなければならない!」と、イエスご自身の務めと覚悟を自覚し、宣言され、実際、働いて下さる、その言葉こそ、ここのポイントです。そのための弟子たちとの問答で在り、この人が目が見える様になった出来事のポイントなのです。この一人を大事にして下さり、働いて下さる、このイエスが私たちの主であり、その決意とお働きが私たちの希望であり、これがイエスの福音なのです。イエスを遣わされた方の御心がそうなのです。これが神の業なのです。

 

 

 このイエスご自身の決意の下に、イエスは今も私たちと共に歩み、希望となって下さる、その言葉を今朝は頂きました。アーメン 感謝です。