「時は満ちた」        2018年12月30日       

 

  マルコ1:14~15   招きの詞コヘレト3:1~8

 

 皆さま、お早うございます。いつも同じような聖書の箇所で申し訳ございません。年末で、時が満ちて、一つの区切りを迎えたと思います。「時が満ちる」で思い出すのは、昔のTVで「女将さん、時間ですよ!」というお風呂屋さんの話で、森光子と堺正章とが出ていましたが、覚えておられますか。営業時間が来た事を大きな声で告げるタイトルでした。一寸話が変わりますが、今度梶原兄弟から、聖書協会からの新しい共同訳を贈呈して頂き、しっかり読まなければと思っています。表紙の帯には「31年ぶり、0から翻訳」と書かれていますが、今の新共同訳や口語訳と比べて、あまり変わっていません。ただ旧約聖書を勉強したい方には、旧約聖書続編として、トビト記、マカバイ記、知恵の書など今の聖書には載っていない分が追加されています。新約に関して新しさは見当たりません。

 

 今日の箇所も全く同じです。「時は満ちた」の訳について私は「時満ちた」と主語をしっかり表す格助詞を使うべきで、「は」は副助詞だったと思います。「時が満ちた。神の国が近づいた」と主語をきちんとする事も今度の分にも見られません。「満ちた」の元の意味は日本語に訳し難いのですが、受動態ですし、時が満ちるとは「潮が満ちる」に近い感じを受けますが、元は「ある一定の期間が終わった」という意味なのです。或る主語

 

がその時間を過ごしたので、時間は受動形になるのです。時が満ちたとは、何となく分かった気がするだけで、何の時なのか、満ちるとはどういう事かよく分かりません。ここをしっかり考えてみたいです。一つの解釈は「神がある期間を過ごされた。それが終わった」という事でしょう。どんな事をその期間にされたのか、そこを私は「神が我慢をしておられた時間」が終わったのだと考えました。では、神は何を我慢しておられたのでしょうか。

 

話は変わりますが、こののぞみ伝道所も20年以上、我慢と言いますか、ず~っと希望を持って我慢してきたと思います。人が少ない時にも、どうすべきか迷う時にも、前に向かって歩いて来たと思います。そして来年度は自立して教会組織を決意しました。その自立とは何かと言いますと、この集いが私たちなりにイエスに従って行く、つまり礼拝をして行くという事ではないでしょうか。どこか他の所が決めた事に従うのではなく、「自分たちなりに」という事が出来る事なのです。お互いに話し合って、お互いに支え合って歩む事なのです。できればイエスが後押しをして下さればと願いますが、イエスも我慢しておられた、そして我慢しておられる。神が何を我慢しておられたのか、「人々の痛みと苦しみを我慢して下さった」その時が終わった、というのです。では、神はもう、我慢して下さらないのか。そこに「神の国が近づいた」と続いているのです。

 

それは新しくイエスが、私たちが生きている只中で、私たちの痛みや苦しみを我慢して下さる時が近づいた、ここに来た、と受け取りたいと思います。私たちはイエス・キリストを主としています。父なる神が天の高い所で我慢する時が終わって、イエスが私たちの所に来て、父なる神に代わって我慢する時が始まったと読めると思っています。ここに何かの権威で訳された聖書が有るのですが、意味がはっきりしない訳だったりする所が有りますので、来年も皆さんと共に、しっかり聖書を理解できるように読みたい、その努力を来年も続けたいと思います。皆さまがどんな事を我慢しておられるのか、どんな事に痛みを感じておられるのか、その痛みや我慢をイエスが共に我慢しておられる、その事を私も受けながら、そのイエスの福音が読み取れるように聖書を読みたいです。そのような新しい時を共に歩みだしたいと願います。

 

神が我慢しておられた時間は終わって、イエスが私たちと共に我慢して居て下さる時が始まったのです。この事が、マルコが伝えるイエスの宣教の始まりだと思います。私たちもお互いが何を我慢しているのか、またどんな状況に置かれているのか、中々大変な方も居られると思います。その我慢や苦しみ痛みは、その方お一人の我慢、苦しみ、痛みではなくて、イエスが傍らに居て、共に我慢し痛みを覚えておられる時が始まった、これがイエス・キリストの福音の出来事だと信じます。遠く高い所での神の我慢ではなくて、私たちの間に宿って下さりながら、私たちの痛みを我慢して下さり、苦しみを担って下さる、つまり「神の国が近づいた」につながっていく時の始まりを受けています。これがマルコが伝える福音が始まりだと信じます。

 

  イエスが私たちの時間を共に担って居て下さいます。

 

      イエス・キリスト アーメン