「イエスが深く憐れんで」   2018年5月27日

 

マルコ1:40~45     招きの詞マルコ6:30~34

 

 

 

 皆さま、お早うございます。今日は5月最後の日曜日で、もう5月も終わり、今年も半年近くが過ぎたのかと思います。外にもたくさん花が咲いてきれいですね。今朝は「イエスが深く憐れんで」という題ですが、これまでも「深く憐れむ」お意味は「ハラワタが突き動かされるような思い」と話をして来ました。今朝は「深く憐れむ」の深くはどこまで深くなのかと考えました。思い皮膚病は昔ライ病と呼んでいた病です。他の人に近づく事が出来ませんでした。この人が皮膚病に罹って、理不尽な不公平な事がまかり通っていた事を考えて見ました。この人は悪い事をしたから皮膚病に罹った訳ではありません。律法をしっかり守れない人々も居たでしょう。罪人と呼ばれましたが、貧しさ故に律法を守れない様な人々も居たと思います。「深く」と言う時、どうしてこの人たちはこの様になったのかという思いかも知れません。「深く憐れに思われて」、しばらくものが言えない、例えば山上の教えの場面で、「イエスは口を開き」と在りますが、これは群衆の姿を見られて、しばらく話が出来なくなられて、やっと話し始められた姿ではないかと思います。

 

 いま祈祷会でヨブ記を読んでいますが、ヨブ記の問題と同じ問題だと思います。ヨブは神の前に正しい人であったと書かれていますが、そこにサタンがやって来ます。ヨブを不幸な目に遭わせればきっと神を呪うだろうと言います。神との問答の結果、ヨブを不幸な目に遭わせる話です。1回目は家族や、財産を失い、2回目には自分の体が凄い皮膚病に罹ります。旧約の神は「正しい人には神は正しく報いて下さる」と信じられていました。イザヤ書を見てみましょう。3章10、11節です。「主に(神に)従う人は幸いである。彼らは自分の行いの実を食べる事ができる。主に逆らう悪人は災いだ。彼らはその手の業に応じて報いを受ける。」、更にヨブ記4章7節「考えて見なさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあったかどうか。」、こんなふうに、正しい人は幸いを受け、正しくない人は悪い報いを受けると信じられていました。でも、それは本当なのかという問題をヨブ記は問うのです。この世の中は不公平ではないか。理不尽がまかり通っているのではないかと言うのです。

 

その様な事を、マルコの著者は「ガリラヤ」という言葉で象徴しています。ガリラヤはユダヤ人からは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていました。これを日本で考えますと、沖縄の人たちは言葉が違う事などで差別されて来ました。沖縄の人々が本土に働きに来て「自分は沖縄出身だ」と中々言えなかった。それで「自分は鹿児島だ」と言ったりしていたそうです。東北の人々もそうです。「東北弁」と言われました。とにかく差別されていました。ガリラヤの人々もず~っ差別されて来ました。イザヤは紀元前8世紀、今から2,800年ほど前に活躍しました。そのイザヤ書に既に「異邦人のガリラヤ」と書かれています。イエスの時代の800年も前にすでに差別されていたのです。個人の努力が及ばない、事故や災害に巻き込まれる、そんな事を重い皮膚病の人に感じられた訳です。五千人の人々が食べる物が無い、重い皮膚病の人は人々の群れに入れない、などの状況にイエスは「ああ~」と深く憐れむ気持ちになられました。これは個人の力ではどうする事も出来ない様になっている、社会全体の流れの中で、個人の力が及ばない、そんな場面ではないでしょうか。イエスはガリラヤの人々や重い皮膚病の人の事をその様に受け止めておられるのだと思います。

 

イエスは父なる神に「父よ、あなたは元々正しい方なのではありませんか。この人を、この人々を見て下さい。」とまで言われたのではないでしょうか。「どうしてなのですか」とも言えます。ユダヤ人には律法が有りました。律法はユダヤ人がエジプトを逃れてカナンを目指す時に、神の選民としてまとまって行動をしなければならないという事でモーセを通して神から与えられたものです。荒野の中の放浪するわけですから、多くの民は失望します。エジプトが良かったとか金の子牛を作って拝んだりします。バラバラになりかかった時に、十の戒めを与えられました。皆がまとまってカナンの地に辿り着くにはルールが必要だったのです。それが今や人々を苦しめ縛る律法になっているのです。安息日には歩く歩数、持ち上げる物の重さの制限、何を食べてはいけない、など細か~い規則を作って、これを守れと律法学者たちが厳しく言います。これをイエスは父なる神に、「あなたはこんな律法を与えられたのですか。律法学者の姿をどう思われますか。神の威光を借りて、自分たちが神の様になっているではありませんか。神殿にお参りして献げものをせよと言っていますが、これは本当にあなたの御心なのですか。」と問われる。「どうしてですか」と問われた深い憐れみであったと思っています。

 

神殿宗教や律法が原因なら、それと闘うというイエスの気持ちになられたのではないか。ただ可哀そうという深いため息ではなくて、これからのイエスの道のりに対して、深い決意をされる、その芽がここに生まれたと思います。重い皮膚病の人を見て「これは一体何故なのか。罪が有るから病気に罹ったのか、そんな人々をどうして外へ追い出すのか、どうして遠くから私の所に来るのか」という様な問いを持たれて、現実には何処に問題が在るのか、それを受けられてのイエスのこれからの歩みを決意されたのだと思います。イエスは最後十字架の上で「神様、どうしてですか」と叫ばれました。ここに通じる「深く憐れんで」という事に感じます。イエスの十字架の上での叫びはイエス個人の事だけではなくて、イスラエルの貧しい人々、重い病気に罹っている人々、差別されている人々に繋がる「何故なのですか」という叫びだと私は思います。その様に受けています。ここまで深い憐れみだと思います。この方が私たちの主なる方です。理不尽な中に置かれている人々の悔しさ、これを受けて下さり、戦って下さったイエス、私たちもまた、力は有りませんが、どんな事のために祈るべきか、何処に心を向けなければならないか、それを主なるイエスから教えられる思いです。同時に、先ほどの讃美歌の様に、一緒に歩んで下さるイエス、私たちの事も深く憐れまれて「さあ、一緒に歩もう、一緒に祈ろう!」と語っていて下さるイエスの深い憐れみを受けさせて頂きました。 アーメン