「平和を祈る」                  2018年8月12日

 

 マルコ10:42~45     招きの詞マタイ5:9

 

 

 

 皆さま、お早うございます。毎日暑いですが、先週は立秋を迎えました。早いですね。自分もどんどん年を取って行きます。少しは涼しくなるでしょうかね。でも8月のお盆の辺りも暑いのでどうぞ、お気を付け下さい。今週は昔からのお盆と戦争に負けた事とが重なる時です。平和を祈る大事な時です。8月6日に広島に、9日には長崎に原爆が落とされました。その記念式典もあり、長崎には初めて国連事務総長が訪れたようです。ちょっときな臭い話ですが、6日に広島には何時に原爆が落とされたでしょうか。8時15分です。長崎には11時2分です。長崎は遅いのですが、最初、小倉に行って、それから長崎に来たので、最初の予定通り小倉ですとやはり早い時間です。何でそんな早い時間に落としたか。アメリカは日本人の生活の仕方をよく調べていました。夏の熱い時は、みんな朝早く起きて外での仕事、掃除や花に水をやったりしていました。朝早くに外に出ている事を知っていたのです。だからこの時間です。それとアメリカは3機編隊のB29を、原爆を落とす予定の上空にいつも飛ばしていました。でもこの3機編隊は爆弾を落としません。それで3機編隊には警戒心を抱かなくなったのです。3機が飛んでくることにみんなを慣れさせて、そして爆弾を落としたのです。こんな風にとことん調べて戦争は相手に犠牲を強いるのです。私はそのとき、山口県の小さな島に疎開をしていて被害を免れました。

 

 

 

 そして戦争が終わって73年経ちました。この73年、日本は一度も戦争をしていません。でも今、日本は平和だと言えるでしょうか。決してそんな状況ではありません。戦争はしていないです。でも日本の人々は平和な気持ちで過ごしているかどうか。いまは事件も多い、自然災害も多いです。その自然災害で余談になりますが、原発が問題なので、いま化石燃料を物凄く燃やしています。再生エネルギーとしてのソーラー発電があります。パネルを置くために山などを削ってパネルを置いています。その仕方が早く安価に造成しているので、あちこちの豪雨で崩れて被害を大きくしています。その他もいろいろ在って、政治は何をしているのか、と憤りをもって考えざるを得ません。その政治や経済の事は今日は横に置いて、聖書から学びたいです。政治経済の問題も疎かにはできませんが、私たちがキリスト者として平和を祈るとはどういう事なのかを考えてみたいです。

 

 

 先ほど読んで頂いた聖書の言葉、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」とあります。つまり、平和は神の業なのです。神が作りだして下さる業なのです。平和を作り出す人、平和のために働く人は、神の子、つまり神のお働きをする人です。人間は平和を実現した事は一度も無い、と言えるでしょう。平和、平和と言いながら、国を守ると言い戦争して来ました。ず~っとです。人の業は戦争や争いを起こします。つまり、人の業は富と権力を求める業だと言っても良いかと思います。先ほど読んで頂いた様に、「異邦人の間では、偉い人たちが権力を振るっている」と在りました。イエスはこう言っています。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)神とお金との両方に仕える事は出来ないとイエスは言われています。私たちは生きる為にはお金を求めなければなりません。しかし富の奴隷になってしまうといけないという事でしょう。イエスの時代に富と力を求めるのはエルサレムを中心とする力、それはローマを中心とする力に支配されます。その犠牲になっているのがガリラヤです。或はこの前に話しましたシリア・フェニキアです。今の日本で例えますと沖縄とか原発が置かれた福島とか、いま片仮名でフクシマと言いますと原発の被害に遭った地域を指しますね。

 

 

 

 沖縄もフクシマもガリラヤもフェニキアも、犠牲を強いられた所です。エルサレムが、ローマが力を持つ、その為に犠牲を払わされた所がガリラヤ、フェニキアなのです。沖縄の問題も非常に苦しい問題ですから、その事を考えない訳にはいきませんが、詳しく述べる事は今日は控えたいと思いますが、或る程度は皆さまもご存知だと思います。講和条約で日本は独立国になりましたが、軍事的にはまだアメリカ軍の占領下にあります。アメリカ軍は自由にこの日本を使う事ができます。その様な条約が結ばれています。また経済的にどんどん格差が開いています。貧しい人がいまは目につき難いと言われて、子供たちも貧しい子たちが増えていますが、見た目にはどの子が貧しいのか判り難いです。戦争直後に私たちは接ぎの当った服を着ていました。今はそんな事はありません。沖縄だけではなくフクシマだけではなく全体に犠牲が増えている状況になっています。ですから犯罪も増えて平和という実感がわきません。いつも戦争をしている国と仲間になって戦争が出来るようになりつつあります。平和は神からの業だと思われるようになっています。祈る事も神に対する業だと思います。ですから「平和を祈る」」という事は神に向かって助けを求める事で、これを大事にしなければなりません。

 

 神に助けを求める事は、イエスが「最も大事な掟」として教えられた事です。第一は神に従いなさい、神を大事にしなさいという事です。そして第二はこれと同じで「隣り人を自分と同じように愛しなさい、大事にしなさい」という事です。これが神が教えて下さった平和への道なのです。神を尊重する、そして隣の人を尊重する事です。これが平和への道なのです。最も大事なこの二つの教えは前にもお話しましたが、「大事にしなさい」は元のギリシア語では命令形ではないのです。どうしてなのかはよく分かりません。でもイエスは「神を大事にしなさい、隣り人を大事にしなさい」を上から目線で教えられたのではないのです。上に立って「神を大事にしなさい、隣人を大事にしなさい」と命令してはいないのです。命令形ではなくて、未来形で教えられた、これから歩んで行く道筋を示して下さった、未来に向かって私たちが歩む道筋を掟として教えて下さったと思います。決して命令ではない。人を大事にするのに、命令されてするべき事ではないですね。未来形を人が歩む「道筋の教え」だと考えます。

 

 

 

 この道筋を歩む事を願う、それが平和を求める祈りだと思います。平和を実現するための道筋です。決して富と権力を求める方向ではありません。だからイエスは「神と富とに、同時に仕える事は出来ない」と言われたと思います。もちろん、私たちは生きている限りお金は必要です。お金が無くては生きる事は出来ない。人の遥か昔にお金を作り出した、そしてたくさんお金を持った人を資本家として、資本主義経済が生まれました。対して労働者が生まれましたが、その構造もいまは変わりつつあります。資本家と労働者の対立構造で、それがひっくり返る事を革命と言いました。しかし今は複雑になっています。違って来たこと、例えば昔は「大蔵省」と言ってました。いまは「財務省」と言いますし、「金融省」もあります。税金とはまったく違ったお金の事を金融省はします。ますます人々はお金に組み込まれています。こんな中で私たちは「平和を祈る」事に徹するべきだと思います。もちろん、食べる為に働きます。でもお金の奴隷になってしまってはいけませんよ、神を大事にする、隣人を大事にする道筋を歩む事をイエスは教えています。そしてイエスはその道筋を一緒に歩んで下さいます。経済も政治も軍事力も大きいのですが、この天地宇宙を創られた神の力に信頼する事です。その力が、私たちを大事に思って下さる、その憐れみ深い御心に信頼して生きる道筋を、つまり富と権力に従わない道筋を、イエスは身を以て教えて下さいました。

イエス・キリストの十字架 アーメン