「イエスの信仰/イエスを信じる信仰/イエスの真実」

         2020年10月25日

ローマ3:21~26   招きの詞マルコ3:1~6

 

 皆さま、お早うございます。先週は「信仰」、「希望」、「愛」という、長く教会生活をして来られた方々には、分かっていると思われる言葉を、本田神父の訳によって、新しく理解する試みをお話しました。今朝もその続きの様な事です。今朝の箇所は、「信仰義認」とよく言われるパウロの言葉です。3:22は「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の業です」。この言葉は、イエス・キリストの十字架の罪の贖いによって、私たちの罪が赦されて、義とされるという、贖罪論の根拠になる様なパウロの言葉です。でも「私たちの罪の赦しのためにイエスは十字架の上で死なれた」という従来から根強い贖罪論を、短時間で要領よく反論することは出来ません。この頃、贖罪論を否定する考え方も少しずつ話される様になりましたが、これはそう簡単に変わりそうにありません。そこで、その問題を横に置いて、直訳すると「キリストの信仰により」という部分に話のポイントを置きたいと思います。これまでの日本語訳は殆どすべて「キリストを信じる信仰により」と訳されて来ました。英語も同じです。所が、今度の日本聖書協会共同訳は、「キリストの真実によって」となっています。つまり、キリストの真実によって私たちの罪が赦されるという事です。何か今までよりも分かり難くなったと思います。発行される前は、多くの神学者たちが「キリストの信実」という言葉を考えていましたが、多くの教派の幹部たちの意見で「真実」となったようです。

 

 パウロは、「真実」、「真理」に当る別の言葉を用いています。ローマ3:4では「真実」と訳されている「アレーセース」、1:18では「真理」と訳されている「アレーセイア」という言葉を用いています。「キリストの信実によって、私たちが義とされる・信仰義認論(その信仰が誰の信仰であれ)からズレてしまうという印象を持ちますが、皆様は如何でしょか。信仰義認論の問題はちょっとやそっとのことで理解したり、決着できるような問題では在りません。でも、イエス・キリストを信じて生きる、イエス・キリストに信頼して生きるというキリストとの出会いは、今朝のローマ書の言葉を別にして、私たちの日常レベルでの信仰生活には、欠かすことができません。別な言い方をすれば、パウロ書簡とは違う感じの福音書に書かれているイエス・キリストとの出会いです。今朝は招きの詞にマルコ3章1~6節を選びました。手の萎えた人を癒す話です。マタイにも同じ記事が出ています。この箇所を声を出して読んで見ましょう。私たちの日常生活で、苦しい事、悩み、困った事など立ち往生するようなことはよく在ります。どうしたらイエス・キリストに出会えるのでしょうか。イエスは弱く小さくされた人々との出会いを求めて、町や村を、山や谷を越えて訪ね歩いて下さいました。今もそうなのではないでしょうか。そのイエスに私たちが気が付かないのかも知れません。自分の事ばかり気になっているからではないでしょうか。

 

今朝の聖書の箇所の話では、手の萎えた人に、何も尋ねられないで「真ん中に立ちなさい」と言われて、イエスは周りの人々の様子を見ておられます。或る時は「どうして欲しいのか」と聞かれる事もありますが、今朝の話では、何も聞かれません。周りの人々に「安息日に律法で許されているのは、善をおこなうことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と尋ねます。人々が黙っているので、「怒って人々を見回し」ました。「キリストの信仰」を、「キリストを信じる信仰」と訳すにしても、そのとき大事なのは、「私がイエスを信じる」事は同時に、イエスの言葉を信じる、つまり最も大事な掟「神を大事にし、隣人を大事にする事」を信じる事なのです。自分が神に向かって、「私の罪を赦して下さい。赦して下さって感謝です」だけでは無いのです。神を大事にしないで、隣人を大事にしないで、イエスを救い主と信じる信仰は無いのです。イエスを信じる、イエスを信頼するとは、隣人を大事にしないで、イエスを救い主と信じる事では、まったく無いのです。イエスご自身、神を大事にされ、困っている隣人を大事に受けて下さいました。それは今も同じです。神を大事にしない、隣人を大事にしないで、イエスを救い主と信じる事は出来ません。

 

旧い日本語で「信じる」という言葉は「受ける」という言葉でした。「イエス・キリストの信仰」を、「イエスが信じる信仰」というと変に聞こえるかもしれませんが、「イエスが困っている人々を受けて下さる業」と言い換えると、少し理解して頂けるのではないでしょうか。今朝の私の問題の「イエス・キリストの信仰によって」とは、「イエス・キリストが弱く小さくされている人々を受けて下さることによって」と言い換える事です。「神によって私たちが義とされる」とは、私たちが、上に引っ張り上げて頂くイメージですが、これに対して、子なる神、イエス・キリストのイメージは、「低みに居られて、私たちを受けて居て下さる」ではないでしょうか。「受ける」には、低い所に立たなければできません。本田神父は「低みに立つ」とよく言われます。

 

そして「受ける」とは、「受けて頂く」事です。私たちが日々生きているその全体を受けて下さるイエス・キリスト、この方を私たちは「主」として頂いているのです。人は頂くとき、「有り難う」と言います。子供たちにも何かを人から頂いたら「有り難う」と言いう事を大事な事だと教えます。私たちを受けて下さるイエス・キリストに「有り難うございます」と応える。ここに主イエス・キリストへの礼拝が成り立ちます。礼拝が成り立つ時、私たちの信仰も成り立つのだと信じます。私たちを今も、受けて居て下さるイエス・キリスト 有り難うございます。アーメン 感謝