「弱く小さくされた人々のための神の決断」 

     2020年12月20日  クリスマス・メッセージ

 

 マルコ10:42~45  招きの詞 マタイ14:13~21

 

 

 

 皆さま、クリスマス おめでとうございます。御子のご降誕を心から感謝致します。イエス誕生の場面はマタイとルカに描かれています。マタイでは2章から、星占いの博士たちが登場します。その次の場面はクリスマスに相応しくない様な話です。天使がヨセフとマリアに、エジプトに逃げるようにと告げます。ヘロデ大王は、ユダヤ全地の2才以下の男の子を皆殺しにします。悲劇を伴う誕生物語です。マルコには誕生物語は在りません。大人になったイエスがナザレからガリラヤに現れる所から始まります。ルカでは、羊飼いたちが夜通し羊の番をしていたと在ります。牧歌的で美しいのですが、この12月は暗くて寒いです。このユダヤ地方では、羊を外で飼うのは10月までなのだそうです。ですから、この物語を書いたルカは、現地の様子を知らなかったのかもしれません。でもこの場面はそれはそれでお話として受けても良いのでしょう。ヨハネは「初めに言があった」と、非常にギリシア哲学的な書き出しです。

 

 

 

 いったい何故、イエスは天から降りて来られたのか、先程読んで頂いたマルコ1042節から45節を、この疑問を解く手掛かりにしたいと思っています。もう一度、読んで見ましょう。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力をふるっている」とイエスは語ります。「異邦人」はユダヤ人以外を指すのではなく、「諸国の民」とも訳せます。ユダヤ人たちも同じでした。(中略)この権力をふるう人たちにたくさんの人々が、支配されていました。権力者の被害者とも言うべき、支配されている人々の為に、イエスは来られたのだと読めます。それを別の視点で捉えたのが、招きの詞のマタイの記事で、5千人に食べ物を与えた記事です。イエスたちを追いかけてきた群衆の姿をイエスは見て、「深く憐れみ」その中の病人を癒されますが、この「深く憐れみ」という言葉は、前にもお話しました様に、「断腸の思い」、お腹がきゅ~っと痛くなるという言葉です。本田神父は「腹を突き動かされた」と訳しています。そんな気持ちになられたのがこの場面なのです。支配者たちや権力者の犠牲になっている多くの人々に、命を献げるために来たのだと言われます。他の箇所も見ましょう。週報に挟んでいますが、いつもの本田神父の訳です。

 

 

 

マタイ18:10~14(本田神父訳)

 

 「この小さくされた者の一人でも、軽んじることのないように気をつけなさい。小さくされた者の使いたちは、天でいつも、わたしの天の父と顔を合わせているのである。あなたたちはどう思うか。ある人が羊を百匹もっていて、その一匹が迷い出たなら、九十九匹を山にのこして、迷い出た羊をさがしに行かないだろうか。もし見つけたら、はっきり言っておくが、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、この小さくされた者が滅びることは、天におられるあなたたちの父の心ではない。」 この小さくされた者が一人でも滅びる事は、天の父のみ心ではないのです。

 

 

 

次に、マタイ25:34~40(本田神父訳)です。これも有名な話で、王が旅に出る時の話です。「そこで、王は右の人たちに言う。「そあ、わたしの父に祝福された人たち、世のはじめから、用意されていた神の国を引きつぎなさい。じつに、「あなたたちは、わたしが飢えていたとき、食べていけるように、渇い(かわい)ていた時、飲めるようにしてくれた。わたしが外国からのよそ者でいたとき、仲間に入れてくれ、はだかのとき、つつみこんでくれた。わたしが力おとろえていた時、見舞ってくれ、わたしが牢にいたときに会いに来てくれたからだ。(中略)はっきり言っておく。わたしの身内である、このいちばん小さくされている者の一人にしたのは、わたしにしたのである」。このいちばん小さくされている者の一人にしたのは、私にしたのだと言われるのです。「共に」以上に、その人になって下さっておられます。このことのためにイエスは降りて来られたのだという事です。一番下は先ほども読みましたが、マルコ10:45(本田神父訳)です。「人の子が来たのは、仕えてもらうためではなく、仕えるためであり、多くの人の解放の代価として、自分自身を差しだすためである」。

 

 

 

この様に一番小さくされている人を、孤独な人を大事にするために来たのだと、イエスは福音書の中ではっきり語っておられます。小さくされた人が、一人でも滅びる事は、父なる神のみ心ではないのです。小さくされた人々が、苦しんでいる様子を天の父は見ておられるのです。一匹の羊も滅びない様に、救いの手を差し伸べるために、イエスはこの世に来られたと福音書は証言しているのです。別な言い方をすれば、この世の一番小さくされた人々のために、そこに救いの手を差し伸べようという、天の父なる神の「決断」があったという事です。クリスマスは「み子のご降誕の話」ですが、私は天の父なる神の事を考えて見ました。「み子」と言われる子なる神をこの世に送って下さったのです。でも、この決断には、「み子の命」を献げる事がどうしても起る、分かっておられたのです。この世の支配者たちや権力を振るっている者は、自分たちの支配の邪魔者を排斥する訳です。マタイのヘロデ大王の記事がそれを明確に語っています。人の子イエスもそれが分かっておられたのです。

 

 

 

それにもかかわらず、この世の隅々にまで足を運んで、弱く小さくされた人々を探して、手を差し伸べて来なさいと、この世に送り出された神ご自身の決断が在ったのです。「苦渋の決断」が在ったのです。神の「子」と聖書では訳されていますが、元は「息子」なのです。神の子、つまり、「神の息子」です。家族の父親と息子という、非常に分かりやすい例えで、示しておられるのです。私たちが自分の家族、例え息子で在れ、娘で在れ、子どもが殺されるという事を簡単に決断できるでしょうか。そう簡単には決断できません。つまり、このイエス誕生の出来事には、それまでに無かった出来事が起ったという事です。旧約の時代には無かった事です。父なる神が全く新しい決断をされたのです。旧約の神は、ユダヤ人の「主なる神」でした。そして長く「万軍の主」と呼ばれていました。戦争し、敵を滅ぼす神でした。詩編にもよく出て来ます。その神が、地上の様子を見ておられて、権力者の犠牲になっている、小さくされた人々を、探し求めて、救いの手を差し伸べる決断をされたのです。つまり、万軍の主が、「父なる神」になれたのです。「息子」に、地上に降りて行き、小さくされた人々に手を差し伸べて来なさいと、「父なる神」になる決断をされたのです。旧約の神とは、ここが違うのです。多くの民が受けている権力者による犠牲を、ご自分の犠牲として、受けて下さる出来事と、その決断を御子のご降誕の出来事から受けています。「息子」と例えられる程に、近い方を、私たち小さくされた人々の為に、その「命」を献げる決断の物語として、このクリスマスを受けています。「死の陰の谷間に住む人々」に、小さくされた者が、一人も滅びないように、「息子を送る決断」が在ったのです。