「神の愛は恵み」              

                      2018年5月6日

 

 

   ヨハネ15:9~10            招きの詞ヨハネ15:11~17

 

 

 

皆さま、お早うございます。下条さんもお久しぶりで、お元気そうで何よりです。中尾さんも本当に久しぶりで、何年ぶりでしょうか。猪城さんも、お疲れの所、ご出席を有り難うございます。たくさんの方々がお出で下さって、感謝と申しましょうか、勿体ないという感じで一杯です。いよいよ5月になりました。もう5月という感じの方もおられるかもしれません。今朝は「神は愛」をテーマにお話をさせて頂きたいと思います。よく「神は愛である」と聞きます。これは非常に良い響きで、良いキャッチフレーズです。世の中の人、或はクリスチャンで無い方々はこの言葉を「知らない」と私たちは思いがちです。それを伝える、つまり伝道をしなければならないと思っています。しかし多くの人は「本当に神は愛なの?」と疑問を持つ方も多いと思います。その言葉は知っているけど、本当にそうなんですか。この世の様々な出来事、人災もあり天然災害も在ります。そんな中で命を亡くされた方も多いですが、また友人や家族を亡くした人は、自分はどうして生きているのかと思いながら、本当に神は愛なのですかと疑問に思っている方々は非常に多いと思われます。そんなことを考えますと私たちキリスト者は、その気持ちに対してどの様に答えたら良いのでしょうか。

 

「神は愛ですよ!」と大きな声で言えばいうほど、虚ろに響く事も有りそうです。先週お話ししましたコラという人が「神は平和を宣言される」と詩編に有り、今年ののぞみ伝道所の主題聖句になっています。コラはモーセに反逆した人でした。そして地面が割れてコラとグループを組んでいた人々は全員、地に飲み込まれました。悲惨な感じですが、このように神は選ぶ方なのです。そこではモーセを選びました。その後繁栄を築いたダビデも大きな国を作りますが、その主な相手はペリシテ人でした。ペリシテ人の子孫が今のパレスチナの人々です。ですから今でもユダヤ人とパレスチナ人は共存できないでいます。ダビデの時代にペリシテ人を何万人殺したと聖書に載っているのです。そんなダビデを応援した方が愛なる神なのでしょう      か。ダビデを選んでペリシテ人を捨てられたのでしょうか。ちょっと立ち往生する様な気持ちになります。

  

 そして新約でも、いま読んで頂いた様に、「わたしがあなたがたを選んだのだ。」とイエスが言われます。ここでも神の方が選ぶ、そんな選びに預かった人は、神の愛の恵みを頂き、喜びに浸る事が出来ます。神が選んだ人々への恵み。では選ばれなかった人は愛されないのでしょうか。選ばれない事が有るのでしょうか。選び事が書かれていますし、旧約でも選ばれなった人の事が書かれています。どうして私は神の恵みに預かれないのかと思っている人々がたくさんおられる。その思い、その問いを神に投げかけられた方がイエスだと私は思っています。イエスはガリラヤを中心に各地を訪ねて人々を癒されました。そして最後には神殿宗教者や律法学者から殺される場面に追い詰められました。そして十字架に架けられますが、マルコ福音書では最後に「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。見捨てられるとは、神の選びの中に入らない事です。選ばれなかった側にどうして私はなっているのですか」と叫ばれた気がします。この方が私たちを愛して下さっているのです。「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛してきた。」(15:9)そのイエスは選ばれなかった側に立っておられるのです。「どうしてですか」という疑問を投げかけられた方です。その方が私たちを愛して下さり、「私が愛した様に、あなた方も互いに愛し合いなさい」と言われるのです。私たちが互いに、或は隣り人を愛する、その限り、神の愛の恵みを受けない人々は居ないのではないでしょうか。

  

 私の掟、命令はこれである、と言われた事は「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と言われました。その命令とは、神の恵みに選ばれない人はいない。「あなた方が互いに愛し合う限り、あなた方が隣り人を愛する限り、そして手を差し伸べる限り、神に愛されない人は居ない。神に選ばれない人は居ない。この様な事が起こる様に、私はあなた方に命令する。」と言われています。神様に「どうして私を選んで下さらないのですか」と叫ばれた方が、私たちを愛して下さる。そして命令をされます。愛されない人、選ばれない人が、一人も居ないように、「あなた方が互いに愛し合いなさい。あなた方が隣り人を愛しなさい。」私はイエスの命令をこの様に受けています。現実に、たくさんの選ばれない人が居られます。その悲劇に遭っている方々、苦しい目に遭っている方々の為に、私たちが祈る限り、私たちが小さくても何か手を差し伸べようとする時、神の愛から漏れる人は居ないのです。そのような掟をイエスから頂いています。単なる命令ではなく、私たちに先立って愛して下さる故に、「どうしてですか」と叫んで私たちを愛して下さる故に、「互いに愛し合いなさい。」と言って居て下さるのだと信じます。 アーメン