「自分の命を愛する者は」       2019年11月3日 

 

ヨハネ12:24~26  招きの詞マタイ20:25~28

 

 

 

 皆さま、お早うございます。11月の声と共に少し寒くなり、今朝は初めて暖房を入れております。今週の金曜日辺りが立冬だと思います。北の方では紅葉が始まっています。この周船寺辺りは12月に入ってからですね。今朝の題を「自分の命を愛する者は」としたのですが、誰でも自分の命を大事にします。これは当たり前です。しかしこの頃はそうとは思えない事件も起こって、誰でも良いから人を殺したいなどと考えて実行する人がいます。人の命を大事に思わないのです。そんな人は今でもアブノーマル、異常に思われます。常識に反する形でイエスは、はっきり「自分の命を愛する者は、それを失う」と言いました。ただ、それに先立って「一粒の麦」の話もしています。「地に落ちて死ななければ一粒のままであり、死ねば多くの実を結ぶ」とよく知られています。この文脈で自分の命を愛する者の話になるのだと思います。自分の命をどう使うか、自分がどう生きるか、の問題です。ただ自分が生き延びる事だけでは、何の実も結ばない、朽ちてしまうだけだと言っていると思われます。

 

 

 

 ともあれこの言葉はイエス自身の事を指しています。イエスの十字架の死を指しています。でも私たちはあれこれ説教して道を説くのですが、自分自身がその様に生きているかと言えば、中々そうは行きません。自分の言葉に責任を持って実行する事は少ないです。人には言うけれど自分自身は知らぬ顔です。しかし、イエスは言葉通りにご自分の命を捨てられました。十字架の上で殺されました。私たちが自分の命と言う時にはこの目に見えない命も勿論ですが、様々な意味を含んでいます。お金が命の人が居ますし、仕事が命の人、研究やいろんな事が命だと人は言います。運動選手は勝つ事が命です。早く走る、強くなる、など様々に在って、勝つ事が大事、命です。ラグビーW杯が昨日で終わりました。日本中がラグビーで沸きましたが、ご存知の通り南アフリカが三度目の優勝をしました。

 

 

 

 ニュージーランドがこれまでに三度優勝した事に並ぶ記録です。南アが初めて優勝したのは、マンデラ大統領の時で、白人優位から黒人と如何に一つの国を作るか、大統領が苦労している時、南アでW杯があり、同点の試合の最後にドロップキックを決めて南アが優勝しました。私は偶然、その試合のビデオを後日見ました。南ア中が白人も黒人も抱き合って喜びました。これは後日、クリントイーストウッドが映画化しました。今回、問題は2位になったイングランドが銀メダルを拒否したと伝えられました。当にイングランドは自分の命を愛する故に、それを失う事になるのではないでしょうか。自分が負けた事を認めたくないのでしょう。優勝して勝つ事は大事ですが、それには常に2位や3位が在り、ビリもいます。そういう事が必ず在るのです。

 

 

 

 コインの表と裏が在る様に、優勝者が居れば2位が居るわけです。準優勝が在るのです。それを認めない事は、このコインそのものを認めない事になります。この紙にも表が在って裏が在ります。表だけで裏のない紙は在りません。この紙は無い事になります。自己存在の否定です。当にスポーツマンシップに反する事です。ワールドカップに出られなかったチームもたくさん在ります。負けた選手たちが何万人いるでしょうか。そんな人たちに勝ったから先に進んで来たのです。負けたチームが悔しくても唾をグッと呑み込んで、道を譲ったから進んで来れたのです。それを否定する様な、負けた事を認めない、認めたくない態度を取る。これは自分を否定する事そのものです。イエスは十字架の上で殺されました。これは負けた形です。イエスがガリラヤの弱く小さくされた人たちのために、豊かな人々、豊かな宗教指導者たち、さらに権力を持つローマの権威に対して戦って下さった。

 

 

 

 でも、元々、神と人間との戦いならば、神が勝つに決まっています。人間を創ったのは神です。神が勝つのが当然です。その神が人間に負けたのです。この場面では。十字架上で殺されました。神が勝つ、つまり人間を滅ぼして終う事を何故なされなかったのでしょうか。人間全部を滅ぼさなくても、奢り高ぶった宗教の指導者を潰せば済むのかもしれない。そして弱者を助ける事は、何か考えられそうです。しかし、実際にはそれは有り得ないのです。勝つ者が居て、負ける者が居る。コインの表裏ですから、上に立つ人が居れば、下に従う人が居なければなりません。それが先程のマタイでは、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」という言葉になったのです。上に立って指導する人は、下に立って従う人が居るから存在できるのです。神が勝って人間を滅ぼされなかったのは、何故か?それは神にとって人間に勝つ事は問題にならないからです。勝負にならない勝負に勝って、何の価値、意味が在るかです。むしろ、人間を創り出した神ですから、その人間を守り抜く事が神のみ心ですし、人間に勝つ事は、或る意味で自己否定になります、人間を創られた神ですから。ともあれ、神の本質、み心は人間に勝つ事では決してないのです。人間を守り抜く事こそ、大事なのです。神は愛であると言われるのは、人間を守る事が、神にとって一番大事だからです。だから、人間存在の傍に、神は神の子イエス・キリストとして居られるのです。ガリラヤの人々に譬えられる弱く小さくされた人々を守り抜く、これが神にとって最も大事な事だと思われます。

 

 

 

しかし、少し微妙なのですが、全能なる神が負けるという事は、どこか矛盾した様な気がします。それですっきりしない感じも残ります。絶対なる方が、弱い人間に負ける事は自己否定にもなるので、全能なる神は何処に行かれたの?と人間は思ってしまいます。絶対なる自己矛盾がそこに起ったのです。じゃ、それを収めるのは誰か?やはり神ご自身しか居られないです。神が自己矛盾に陥って、それをどうやって収めるか。それが十字架の出来事の只中で起ったのです。イエスが負けた様に見える十字架の真上で、と言いますか、十字架の上で起ったのです。子なる神イエス・キリストが自分を犠牲にされながら、殺されながら、父なる神に問い、父なる神と闘われたのです。人間に殺されたという事だけが、十字架の出来事では在りません。イエスは十字架の上で父なる神に闘いを挑まれたのです。それは人間としても究極の問いをと問う事です。大震災や、不幸な出来事で亡くなるとか、今まで一緒に手を繋いで居た人が波にさらわれて亡くなるとか、その自分でどうしてよいか分からない時の、「私の神様、どうして私をお見捨てになったのですか」という問いです。

 

 

 

この様にどうしても自分では答えを出すことが出来ない状況に人間は陥ることが在ります。自分のせいでは決してない。でも、そのマイナスの結果が自分に降りかかって来る、そんな事がたくさんあります。その様な人生を生き抜いて来られた方々が皆さんの中にも居られると思います。その人間にとっての究極の問いを、イエスが十字架の上で父なる神に大声で発したのです。「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と。これを大声で叫ばれたのです。その姿をローマの百人隊長が「本当に、この人は神の子であった」と証言するのです。その事をマルコが書いているのです。この人間にとっても究極の問いをご自分の問いとして父なる神にぶっつけた。この究極の場面で全能の神と人間を守り愛する神との矛盾がここでぶつかり合って、子なる神イエス・キリストを永遠の命の復活へと導く事で、全能の神としての力が、人間を守る神としても生きて働いて居られる故に起こった出来事だと信じます。そこに至るまでご自分を捨てて父なる神と闘って下さったイエス・キリスト 

アーメン 感謝!