「誰でも見れるのに」          2020年年4月26日

 

ルカ8:9~10     招きの詞 マタイ13:10~17

 

 

 

 皆さま、お早うございます。時間と共に少しずつでも収まるのかと思っていても、そう上手くはいっていませんね。突然重症化して亡くなる方も方々も居られて、予断を許さないので、本当に怖い感染症です。医療に従事して居られる方々のご苦労は大変なものでしょう。その方面に対する政府の対策は目に見えません。大衆受け(ポピュリズム)しか目に無いのでしょうか。また国民の方も深刻な状況よりも自分の素人判断で行動するパターンも多いのではないでしょうか。こんな危機的な状況だからこそ、聖書の言葉を真剣に理解しなければなりません。今朝は、少々分かりにくい話を取り上げました。私たちは聖書を読み、イエスの福音を聞いています。誰でも見れるし、聞くことが出来ます。しかし、私たちは、神の言葉を本当に見て聞いているのでしょうか。見ているつもり、聞いているつもりだけではないのでしょうか。或は、説教で神の教えを説く、牧師たちは本当に見て聞いているのでしょうか。責任は大きいです。この頃は、年のせいか、或は元々そうだったのか、見ているつもりでも、ちゃんと見ていなくて、しょっちゅう探し物をしています。見える所に在るのに、気がつかない。認識力が無いので、苦労します。後で見つけて、一人苦笑いです。

 

 

 

 皆さんは映像作家の保山ホザン耕一氏をご存知でしょうか。奈良市の春日神社を中心に、奈良の自然の映像を写しています。元々テレビカメラマンだったのですが、癌を患ってから、仕事を辞め、療養を続けるうちに、スマホで動画が撮れる事に気がついて、今では本格的な映像を世に送り出しています。ぜひ一度、インターネットでご覧下さい。心が癒される美しい世界が広がります。保山氏は「美しい景色は誰でも見れる。しかし、本当に美しい瞬間を誰も見ていない」と言います。ただ、自分が見た時にそれが美しいと感じる事は在っても、一番美しい瞬間を見ようとしていないと言います。見られる花や景色が、最も美しい瞬間を求める心が必要なのです。「自分が見る」という姿勢を改めて、見られる側の輝く瞬間を探さなければならないのです。(この保山氏の映像をぜひ一度、ネットでご覧下さい。誰でも見れます。)

 

この「見る、聞く」話が福音書に出て来ます。マタイ13:10~17とマルコ4:10~12とルカ8:7~10が平行記事になっています。マルコが古い記事で、マタイとルカはそのマルコをお手本にしながら、更に自分の立ち場や信仰を加えて書いています。この記事に関しては、ルカはマルコにほぼ同じ書き方ですが、マタイはかなり変えています。読み比べて下さればお分かりと思います。マルコとルカでは、一般の人々が神の国の秘儀を理解できないのは、「『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」と、イエスの一般の人々に対する考えが、どうして?と思ってしまう言葉です。マタイでは、「『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』」と一般の人々の態度の結果として、見ることなく聞くことがないと言っている様に見えます。マルコとルカでは「立ち帰って赦されることがないようになるために、例え話しかしないと、ギリシア語文法的にも、目的表現になっています。マタイのように、一般の人々の信仰を批判して、その結果、彼らには理解できないから、という事なら理解も納得もいくように思います。でも、マルコ4:12とルカ8:10では、ギリシア語が同じで、「赦されることがないようになるためだ」と、目的表現になっています。わざとイエスは民衆を差別しているのでしょうか。

 

 

 

 これに対して、岩波版の佐藤研先生は、マルコ4:12を「〔にもかかわらず〕彼らは立ち返って、赦されることになるかも知れない」と訳しています、新共同訳、聖書協会共同訳と反対です。そして「(新共同訳など)、これでは2:33~34とも内容的に矛盾する。本訳の(この)ように理解することが十分可能である」と註を付けています。本田神父は、一般の一般人々は「神の国の外に立つあの人たち」だから、「いつまでも、立ち返って神のゆるしを受けるにいたらない」と結果のように訳しています。一般の人々と言えば、私たちが正にそうです。私たちは神の国の外に立っているのでしょうか。そして、神の国の秘儀から遠いので、いつまでも神のゆるしを受けられないのでしょうか。神の国の秘儀は、信仰深い弟子たちの様な人々にしか、明かされなくて、一般の人々、即ち、私たちは「赦されず、救われない」のでしょうか。願わくは、佐藤研先生の言われることが真実で在って欲しいと願います。

 

 

 

 もう一つ、私が気に入った解釈が在ります。例の気仙沼の山浦医師のルカの方の解釈です。少し長くなりますが、引用します。

 

 

 

 弟子たちがイエシューさまにお尋ね申した。「こお喩えの意味は何でご(何ですか)?」 

 

誰が聞いてもよくわかるこのたとえの意味をさらに尋ね るとは、どうも呆れた問でござるが、弟子たちとしては、一般大衆とは一味違う深い奥義をこのじぶんたちには特別に授けて頂きたいと願ったのでござろう。

 

10するとイエシューさまは〔すっとぼけて〕こんなことを言いなさった。「お前さんたちは〔お利口だから〕神さまのお取り仕切りの深い心をとっくによ~くわからせていただいているよな。しかしな、ほかの者たちは〔お馬鹿だからね。〕わざとたとえで話しているんだ。それと言うのも、実はな、あの者たちが見ても見ず、聞いてもわからないようにしてやるためさ。」

 

これまたイエシューさまお得意のおとぼけでござった。本音を見透かされて頭を掻く弟子たちに、イエシューさまはおかしさをこらえながら、次のようにお話なさった。

 

             (「ガリラヤのイエシュー」より)

 

 

 

私たちは十二弟子と言えば、信仰深く、イエスからの信頼も厚いと考えがちだけれども、時には「信仰の薄い者たちよ!」と嘆くイエスの言葉も見られます。この山浦医師の解釈する、いたずらっぽいイエスの姿もまた理解できる気がします。

 

 

 

私たちもイエスの言葉を聞くには聞くけど、聖書を見るには見るけど、理解しない事にならないように、常に向こうから来る福音、神の言葉から、イエスの言葉から来る命、福音に目と耳と心を研ぎ澄ますべきではないでしょうか。イエスの声を聞く祈りの心をもって聞くべきなのです。