「再び現場へ」 イースター礼拝     2019年4月21日

 

マタイ12:9~14    招きの詞マルコ16:1~7

 

 

 

 皆さま、イースターおめでとうございます。イースターは北欧の春を告げる女神の名前だそうですが、イースターの日をどうやって決めるかご存知でしょうか。毎年違います。春分の日の後の満月の後の最初の日曜日なのです。春分の日はどんな日でしょうか。春分の日は昼と夜の時間の長さが同じだと思っていましたが、実は太陽が真東から昇る日です。ガリラヤの春は美しいそうです。ユダヤ南部の乾燥した山が連なる地域と違って、ガリラヤ湖とヨルダン川のおかげで花が多く咲いて美しいそうです。私は春に二つの事を思い出します。一つは英語で現在完了形を初めて習った時に、Spring has come. を、「春が来た。そしていま春だ」と覚えるように教えられた事です。もう一つはT.S.Eliot の詩で「荒地」の冒頭の部分です。私は詩などが出来なくて散文的な人間ですが、今朝は春にちなむ二人の英国詩人の詩を紹介したいと思います。一人は皆さまよくご存知のロバート・ブラウニングです。上田敏の有名な訳も良く知られています。

 

Robert Browning 1812---1889          上田敏1874---1916 訳

 

                             

 

The years at the spring,           時は春 

 

The days at the morn,            日は朝(あした)

 

Mornings at seven,              朝(あした)は七時

 

The hill-sides dew-pearled,          片岡に露満ちて

 

The larks on the wing,             あげひばり名乗りいで

 

The snails on the thorn、          かたつむり枝に這ひ

 

Gods in his heaven----            神 空に知ろしめす

 

Alls right with the world!           すべて世は事もなし

 

(この詩は長編の「ピッパが通る」という詩の一節です。この様に余裕を感じさせる詩は、ブラウニングがヴィクトリア朝時代の詩人だからだと思います。この時代、英国は産業革命によって大英帝国の絶頂期でした。)

 

 

 

 もう一人はThomas Stearns Eliot 1888---1965です。ブラウニングと全く対照的な詩です。アメリカ生まれで英国に帰化した人です。

 

           The Waste Land         1922  

 

        I. The Burial of the dead                  

 

April is the cruelest month, breeding 

 

Lilacs out of the dead land, mixing

 

Memory and desire, stirring

 

Dull roots with spring rain.         (以下省略)

 

「荒地」

 

第一部 死者の埋葬

 

四月はいちばん残酷な月だ さかりの 

 

ライラックを死の土地から育て 乱雑に
記憶と願望をもつれあわせ 

 

鈍くぼんやりした〈根〉を春の雨で

 

[不穏に]活気づける           (以下略)

 

 

 

 これは自然を詠って居る様で、実は歴史意識が強く反映していると思います。エリオットの時代は1914年から1918年までの第1次世界大戦が有り、英国人は第二次大戦よりも、第一次大戦の方を強く記憶しているそうです。被害も第一次の方が比較にならない程大きかったのです。1920年代には、全体主義の第3帝国が勢力を増して行きます。ヨーロッパの風土が非常に荒れて来ます。その意味で非常に危機意識が高いと思います。神学者Karl Barthも同じ年代です。(1886---1968) 彼も同じように危機を感じ、彼の神学は危機神学とか弁証法神学とよばれ、ヨーロッパ世界のキリスト教に警鐘を鳴らしました。全体主義は国家主義とも呼ばれ、ドイツのナチズム、ソビエトの共産主義、日本の天皇中心の国家主義などが起こりました。エリオットの詩は日本人には分かり難い英国やヨーロッパの歴史が影響しています。

 

 

 

 イエスが十字架に掛けられた出来事の後、ユダヤ、ガリラヤは状況が良くなったのでしょうか。人々は豊かになり、政治は安定していたのでしょうか。答えはNo!です。紀元70年にはエルサレムを巡る攻防戦がローマとの間に起こり、76年にはエルサレムが陥落しました。ユダヤの国がその後2千年間、地上から消えてしまいました。イエスの死後、状況はドンドン悪くなっていくのです。いま私たちは2019年の春を迎えています。これから歴史はどの様に動いて行くのでしょうか。春の自然の美しさだけに目をやるわけにはいかないと思います。バルト先生もドイツでナチズムが勢力を増していく中で、自分の神学を危機神学と捉えました。これまでのヨーロッパのキリスト教(主にカトリック)に対して、新しい神学を提唱しナチスに強く抵抗もしました。ボンヘッファーも危機神学に共感しました。詩人エリオットもそうだったと思います。

 

 

 

 いま2019年の春ですが、世界はこれからどうなって行くのでしょうか。キリストの復活に相応しくない事の様にも思いますが、大事な事ではないでしょうか。恩師の猪城博之先生は歴史をしっかり学ぶと同時に、「預言をしなさい」と言われました。これから平和で豊かな世界が訪れる様には思えませんね。経済の問題が大きく立ちはだかっています。貧しい人々は益々貧しくなる。(平成元年と28年の格差はさらに大きくなっています)子どもたちが明るい未来を考える事が出来ない様な状況になっています。この事を、世界が、そして日本が二千年前のガリラヤと同じ状況になるのではなかと、考えました。大きな勢力に依って、世界も日本もガリラヤ化するのではないでしょうか。異邦人のガリラヤ、辺境の地ガリラヤと言われました。貧しい人々は本当に打ち捨てられ打ちひしがれていました。これから世界も日本もその様な状況になるのではないでしょうか。

 

 

 

 これからの世界や日本の歴史を考える時に、復活されたイエスが、マルコ福音書によれば、天に昇るのではなく、ガリラヤへ行くとなっているのです。「君たちよりも先にガリラヤへ行く」と若者に言葉を託されました。混沌としたガリラヤ、動きが激しいガリラヤ、平和がどこにも見えないガリラヤです。そのガリラヤへ弟子たちよりも先に行くと言われたのです。歴史の混沌とした激動のガリラヤです。歴史の問題の只中を、今朝は「現場」という言葉を使いました。私たちが生きている只中、つまり現場にイエスは再び、誰よりも早く戻って行かれたのです。これがマルコ福音書の復活のメッセージです。これからどうなるか分からない私たちが生きている現場に戻って来られたのです。これから希望が無い、どうなるか分からない現場に復活したイエスが来て下さる。二千年前も厳しい状況のガリラヤに戻られましたし、今、希望が持てない現代の私たちが生きている現場に戻って下さる、復活されたイエスが尚、働いて下さるのだとマルコは私たちに伝えています。 イエス・キリストのご復活  感謝  アーメン