「預言をする者は教会を造り上げる」 2020年8月16日

 

 第一コリント14:1~5 招きの詞イザヤ61:1~5

 

 皆さま、お早うございます。暑い中をご出席下さり、感謝申し上げます。ここに萩の花が生けて在ります。草冠に秋と書いて「萩」ですので、先ず秋を感じさせる花なのでしょうね。今日から、ここに透明のシールド版が置かれています。それ程、口角泡を飛ばす者ではないと思っていましたが、やはり飛沫というのは想像以上にひどいですね。昨日は75回目の終戦(敗戦)記念日でした。日本の軍人で、戦争を始める事に賛成だった将軍は多いのですが、どの様に展開して終戦に至るかを、真に展望した将軍は、一人か二人でしょうね。今朝は「預言」という言葉ですが、予見の予言と預金の預言が在りますね。ギリシア語の預言は、神々の意志を解釈する才能を指しました。ギリシアには、ゼウスを筆頭にたくさんの神々が居ました。

 

 ユダヤ教、キリスト教では神は唯一で、その唯一の神のみ心を知り、神の言葉を預かって人々に告げる役目をするのが、預言者でした。唯一の神は何を望んでいるのか、神は歴史の主でもありました。預言者は、ユダヤ民族の歴史について、その時代批判をするのも役目でした。その意味で、歴史の先取り、「先読みも役目でした。今朝はイザヤ書で見て行きたいと思います。イザヤ書第1章は「ユダの審判」です。第3章では「エルサレムとユダの審判」です。「主は裁きに臨まれる。民の長老、支配者らに対して『お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし 貧しい者から奪って家を満たした。何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き 貧しい者の顔を臼でひきつぶしたのか』と 主なる万能の神は言われる。」(3:「14,15」第5章8節からは「富める者の横暴」です。第6章に、イザヤの召命が在ります。「わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしをお遣わしください』」(6:「8」そして7章から新約とつながる、インマヌエルの預言です。14節bの「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」はマタイ1:25節に引用されます。

 

 こうして見ると、預言者は神のみ心に添って、時代を厳しく批判し、また予言します。その予言の大きなものが「苦難の僕」予言です。「主の僕の苦難と死」は52章13節から始まります。」神の子イエス・キリストの出現の預言ですから、これは預言でもあります。そして主なる神は「責める」だけの神では在りません。54章から「新しい祝福」が語られ、56章から「異邦人の救い」が語られます。そんな中で私たちはどうしたら良いのか、その道も示されます。57章15節以下「わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる。わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。」そして58章「神に従う道」が語られます。しかし59章では「救いを妨げるもの」が語られ、人間の現実が語られます。

 

 でも、神は裁くだけの神では在りません。60章から「栄光と救いの到来」が告げられます。そして61章から「貧しい者への福音」が語られ、イザヤ書最後の章第66章2節bで「わたしが顧みるのは 苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人」と主が期待する人物像が示されます。いま見て来ましたように、預言者イザヤは裁きと救いを予言しています。それはイエスの到来を語っていると思います。パウロの言う預言とは、神のみ心としてのイエス・キリストを語る事です。コリントの教会に異言を語る人々が居たのでしょうが、周りの人々は何を語っているのか分かりません。ギリシア語で異言は、英語のミステリーmysteryの語源になりました。真相が分からない状況ですね。予言は、「前もって」と「天からの声」などが合体して出来たのではないかと思います。パウロにとって予言するとは、イエスの福音を語ることです。

 

 預言者イザヤが語っていたことが、現実の出来事になった、つまり、イエス・キリストによる救いの出来事、喜びの出来事を語る事であり、特に、イエス・キリストの十字架の出来事を語る事です。そしてこの出来事は長く教会の中では、罪を赦し、贖う出来事だと解釈され、語られて来ました。この解釈を変える見方が時代の変化と共に、今、言われ始めていると私は思っています。真理は永遠に変わらないのでしょうか。真理としての唯一の神、生きて歴史を導かれるヤハウエの神は、変わられないんでしょうか。私は、変われるし、事実、変わられたと信じています。旧い約束の主として、ご自分に忠実な僕になる事を、人間に求められました。しかし、人間の様子を見られて、新しい出来事を起こされる方だと信じます。例えば、出エジプトの出来事がそうだったと思いますし、最も大きな歴史上の出来事として、神の子イエス・キリストの出来事を起こされた、十字架の出来事を起こされたと信じています。そして、現代世界で、キリスト教は「窮地」に立たされていると思います。第二次世界大戦で、ヨーロッパのキリスト教(主にはカトリック教会)は、今までに無い試練に立たされました。そして大きく信頼を失いました。今や、キリスト教会に行く人は激減しています。日本でもそうです。時代の変化に無関心、無理解では駄目だと思います。ルターも時代の変化を読み取ったのではないでしょうか。

 

 代欧亜戦争、つまり、太平洋戦争で、日本軍部は物資の乏しさも在って、精神主義を掲げました。日露戦争の立役者、東郷元帥の「百発百中の砲一門は、百発一中の砲百門と同じだ」と言い、厳しい訓練をさせました。この発想を太平洋戦争でも、使いました。この発想の間違いがお分かりでしょうか。それは時間の観念が無い事です。百発百中の砲一門が百発打つには、百回打たなければなりません。他方、百発一中の砲百門が百発打つのは、夫々が一回だけで済みます。一回で百発打てるのです。優秀な砲でも、一門では一回に一発しか打てません。百発一中の砲で、一発目で百発全部が命中する可能性はゼロでは在りません。一度の30発は当たる可能性はかなり高いです。そして日本軍は天気決戦から消耗戦へと引きずり込まれました。

 

 パウロは預言する事を、1節の「愛を追い求めなさい」という文脈の中で語っています。それをイザヤの預言に従って考えると、「貧しい人々への福音」、

つまり、貧しい人々への「愛」という事ではないでしょうか。そして私たちには、現代の歴史の中での貧しく弱くされている人々への福音、つまり、その人々への愛です。その人々への愛を追い求めなさい、それが福音を語る事だと信じます。別な言葉にすれば、現代の人々は何を求めているのか、この事にイエス・キリストが関わって下さると信じます。この事に於いても、「インマヌエル、神我らと共に」のイザヤの預言が実現する事です。神の救いの喜びに共に預かる場としての教会が語られる預言です。しかし、今、本当に教会で愛が求められ、預言が語られているのでしょうか。私はこのアイヘンバーグの絵は現代に於ける預言だと信じます。

 本田神父に依れば、この様に、貧しく弱くされた人々への関わりが、世界の教会の常識になりつつあるそうです。日本では、キリストの罪の赦しの救いをまだ知らない人々へ伝道することが教会の使命、福音伝道だと信じられています。この日本の教会の常識は、世界の教会の非常識になりつつあると語られます。イザヤの「貧しい人々が福音を受ける」という預言を、今まさに私たちへの神の言葉、神のみ心として受けるべき時ではないでしょうか。インマヌエル、主なるイエス・キリスはどんな時にも、私たちと共に居て下さる方、私たちに寄り添って居て下さる方です。イザヤの預言に感謝 

 インマヌエル アーメン