「足元が崩れて行く」         2020年年5月24日

マルコ13:1,2     招きの詞 マタイ16:5~12

 

 皆さま、お早うございます。その後お変わりございませんか。それにしても黒川検事長の事は驚きました。今朝の奨励の題は先週月曜日に決めたので、この事件が起こる前ですが、何か、当り!と言えるような感じです。この件に関しましては、たくさん言いたい事が在りますが、礼拝の奨励ですので、これ以上の事は慎みたいと思います。

 感染症が収まり掛けて、緊急事態宣言の解除と共に、第二波、第三波を避けるために、「新しい生活スタイル」をという言葉を聞くようになりました。経済活動を再開して、日常の生活を取り戻さないといけませんが、再度感染症が起こらないように気をつけなければなりません。先ずは「三密」を避けての行動をしようという事だと思います。しかし、例え三密を避けて、コロナをやり過ごせたとして、その新しい生き方に、元々希望は在るのでしょうか、未来は在るのでしょうか。コロナが襲って来なくても、私たちの生き方は足元が崩れ始めていたのではないかという危機意識を持ちたいと、このタイトルを決めました。

 

 コロナ以前の日本や世界の状況、政治・経済には大きな問題が在って私たちを脅かしていました。経済格差は勿論、米中対立と、それを囲む東南アジア、ヨーロッパ、ロシア、インド、アフリカ、南米など政治・経済状況はお先真っ暗です。今、火を噴いているアフガニスタンを初め、シリア、トルコ、イラン、イラク、イスラエル、サウジなどの問題は私もそうですが、日本人が少し疎いですが実は大きいです。アフリカや南米などは尚更、遠い所の火事位にしか感じていない様なのですが、人の命が粗末にされている状況こそ、正しく私たちの足元が崩れていると案じます。日本国内に於いても政治・経済そして文化はどうなのでしょか。何処か足元が崩れ行くという感じは無いでしょうか。

 

 目を今朝の聖書の箇所に向けて見ましょう。弟子たちがエルサレム神殿の素晴らしさに驚嘆するのに対して、イエスは歴史預言者の様な言葉を言います。聖書記者にとっては、この神殿はイエス自身を指すことが多いです。「この建物を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2:19)のイエスの言葉が在ります。弟子たちとイエスが見ている神殿は、ヘロデ大王が紀元前20年に、それまでの第二神殿を完全改修拡張したもので、ヘロデ神殿と呼ばれていました。エルサレムの神殿建設はダビデ王が計画しましたが、彼は余りにも多くの人を殺して、その手が汚れているという事で、神に許されませんでした。その子ソロモンによって、紀元前10世紀頃に建設されました。ソロモン神殿と呼ばれていました。その後のイスラエルの歴史は、主なる神に従わないからと、罰としてバビロン帝国に滅ぼされ、ユダヤ人がバビロンに連れて行かれるバビロン捕囚が起こりました。その後ペルシャが興り、バビロンは滅びて、ユダヤ人は帰国します。そのバビロン捕囚後、ユダヤの国を再興したゼルバベルは、二度と神の裁きを受けないように建国の中心に神殿と律法を据え、紀元前515年に神殿を建て、第二神殿と呼ばれました。ゼルバベルはダビデ王の直系で、行政指導者となりました。マタイ福音書冒頭の、ダビデ王の系列にその名が出て来ます。(1:12)

 

 この第二神殿をヘロデ大王が改修した神殿をイエスたちは見ていたのです。この頃、エルサレムの「嘆きの壁」の話を耳にしますが、この神殿です。古代ローマ帝国の歴史もずいぶん古くから始まっていますが(紀元前500年頃から)、イエスの時代は、皇帝アウグストスが紀元14年に亡くなって、次のティベリウスが即位して37年まで治めた頃に当ります。ユダヤとの関係も紀元前63年には、ローマ軍がエルサレムを占領します。エルサレムは山上に在って、近くには深い谷が在り、攻略し難い場所に在りますが、ローマ軍は何とか占領します。もうこの頃からローマの強力な支配下に在ったのです。イエスの言葉は歴史の預言者の様だと申しましたが、紀元70年にユダヤ戦争の末にエルサレムは陥落して神殿も崩壊しました。イエスの時代に神殿の祭司たちや律法学者たち、ファリサイ派などの指導者たちが、ガリラヤその他の貧しい人々を罪人と読んで排斥したのは、彼らに危機感が在ったからです。いつ、ローマ帝国に完全に支配されるか分からない状態でした。支配されない為には、彼らがしっかりユダヤ社会を治めている実績が必要だったのです。だからガリラヤその他の極貧の人々(プトーコイ)を罪人として弾き出していたのです。そのプトーコイをイエスは神殿や律法より大事にしたので、当にイエスは祭司たちにとって、危険人物であり、亡き者にしなければ自分たちが危うかったのです。すでに神殿宗教、律法主義の足元が崩れ始めていたと、イエス時代のユダヤの歴史的状況を捉えます。ユダヤの自治が崩れつつあったわけです。

 

 現代の私たちの足元も崩れつつあると危機意識を持ちます。現在の世界の危機的状況は、コロナの危機で少し霞みましたが、決して消えてはいません。政治・経済・軍事状況を離れても、温暖化による異常気象は、一方で世界各地で大水害・洪水を起こし、他方で砂漠化が起こっています。アフガニスタンもその例に漏れず、生活の苦しさはテロを生み出しました。飢えと寒さで震える子供たちのために、井戸を掘り用水路を掘って、砂漠を緑の農地に変え、60万人以上もの人々が戻って来た、その大事業を果たす途中で凶弾に倒れた中村哲先生の働きは、当に崩れて行く足元をしっかり固め直す努力で在ったと信じます。足元の崩れを止めようとされた中村先生のご遺志とお働きを、しっかり心に留めて、その篤い思いを大事にして参りたいと思います。そのことの為に祈りましょう。心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして。

 

 コロナウィルス感染症で、私たちも礼拝をいつもの様に守る事が出来ませんでした。教会はギリシア語で「エクレシア」と言いますが、それは「召集された者たちの集まり」を意味しています。政治的にも使いました。第1コリント11:17、18には「あなたがたの集まり(つまりコリントの教会)が、良い結果よりむしろ悪い結果を招いているからです。あなたがたが教会で集まる際」とパウロが書いています。つまり教会は「集まる所」なのです。集まることに先ず意義が在ると思います。一人で聖書を読み、主イエスの名によって祈るよりも、集まって心を合わせて聖書を読み、心を合わせて祈る事を、キリスト者としての生き方の中心に置いているわけです。勿論、その集いの中心は、イエス・キリストです。今、集う事が出来ません。では、私たちの信仰・信仰生活が足元から崩れて行くのでしょうか。私たちは目に見える形だけで集まっているわけではありません。主イエス・キリストの霊によって結び合わされているのです。私たちが真に礼拝するのは、人間的に集い、つながるだけでは在りません。ヨハネ4:201~24でイエスが次の様に言われています。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」ここでエスが言われる「霊と真理」とは、イエス自身の事です。同じヨハネ14:6で、「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。』」また、14:16~17で、「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにして下さる。この方(聖霊)は、真理の霊である。」つまり、教会は人間的な集まりだけでは在りません。もし今教会が足元から崩れ行くのなら、集まれないからではなく、別な事に心を奪われているからです。霊と真理をもって父なる神を礼拝しましょう。霊と真理はイエス・キリストです。私たちにそれが無くても、心配は要りません。主イエスが備えて下さるからです。お互いの為に、そして今、弱く小さくされている人々の為に、祈りましょう。霊をもって祈り、理性をもって祈りましょう。イエス・キリストに支えられ、導かれて礼拝しましょう。イエス・キリストが私たちの祈りを受けて、この群れを導き霊を送り真理を送って下さるからです。主よ、感謝致します。イエス・キリスト アーメン