「この言葉はいったいなんだろう」  

                           2019年3月24日       

 

ルカ4:31~37   招きの詞:マタイ7:28~29

 

 

 

 皆さま、お早うございます。昨日の土曜日の朝、東洋ローア伝道所の方々が、ここで礼拝をされて、唐津の方にイチゴ狩りに行かれました。この小さな会堂が役に立った事を有り難いと思います。このろうあ者の方々は話し言葉が不便な方々ですね。手話を私は殆ど分かりません。この頃は唇を読む事も重視されているようですが、これもやはり難しいでしょうね。今朝の「この言葉はいったいなんだろう」の「この言葉」は話し言葉です。イエスが語られた話し言葉です。私たちは聖書を通して神に言葉を頂くのですが、この場合の言葉は「文字」なのです。書かれた文字を通してなのですが、イエス自身は一文字も残していません。全部話し言葉で、こんな時にイエスがこんな話をしたのを伝えられて文字化しているわけです。話し言葉のニュアンスが文字に伝えられているのか、難しい所があります。言葉は非常に抽象性が高いです。しかし、逆に具象性も強いです。時代や、使う人、地域によって異なり変化します。そこにはニュアンスの違いもあります。今朝のルカは「何だ、この言葉は?」と書いているのですが、マルコは同じ記事で「何だ、この事は?」と書いています。マタイの方は「イエスの教え」にひどく驚いています。ルカがこんなに「言葉」に意識が有ったのか、と初めてこの事に気がつきました。

 

 

 

 カファルナウムでイエスが悪霊に取り付かれた人を癒す出来事を起こされた場面です。この言葉は悪霊を追い出す出来事を起こす言葉なのです。カファルナウムは海面から210m程も低い所にある漁村です。悪霊に取り付かれる事は、現代ではどんな事なのでしょうか。私たちの生き方の中で、これに類した事が多く在るのかもしれません。またここはガリラヤ地方ですから、ヘブライ語の方言のアラム語を話していました。ユダヤ教の聖書(旧約)はヘブライ語で書かれています。ですから、神殿の祭司たちも律法学者たちもヘブライ語を使っていたのだと思います。これに対してイエスはアラム語という方言、ガリラヤの人々の言葉を使っていました。でもその当時すでに、ヘブライ語の聖書はユダヤ人にも難しいものでした。私もその昔、神学生の時にヘブライ語の前期試験で欠点を取って関谷先生から叱られた事を思い出します。ユダヤ人たちもヘブライ語の聖書は苦手だったので、紀元前3世紀の中頃から前1世紀の中頃に掛けて、ギリシア語に大勢の人たちで訳したのを、七十人訳聖書と呼んでいます。地中海世界の共通語になっていたギリシア語の方が通りが良かったのです。このカファルナウムの会堂では、何語で聖書が読まれていたのでしょうか。

 

 

 

 七十人訳聖書は、今の私たちが手にしている旧約聖書の部分だけではなく、外典とか偽典など、今度の聖書協会の聖書には出ている部分もたくさんの文書を含んでいます。まだきちんとした正典は出来ていませんでした。モーセ五書、イザヤ書、詩編など、部分的に用いられていたと思います。とにかく私たちはこの聖書が神の言葉だと信じています。のぞみの祈祷会でも聖書とは何かとか、神の言葉ではないのかとか、いろんな議論が起こります。私が聖書を神の言葉だと信じていないと思われている様で、申し訳ないです。実際、この一冊全部が聖書だとはあまり思っていません。でもこの聖書から、イエスはどんな方だったのか、何をして下さったのか、受けたいと願っています。ともかくイエスはアラム語を使っていた様なので、会堂ではアラム語で教えられたかもしれません。イザヤ書など、何語を用いたのでしょうか。

 

 

 

そんな中で人々が驚いた、びっくりしたのです。それは何語を使ったからではなくて、奇跡的な出来事を起こす言葉だったからです。この「驚く」という語を岩波訳で、ルカを「肝を消すような」と訳し、マタイは「肝を潰すような(驚き)」と訳しています。以前から「深く憐れむ」は「腸ハラワタが痛くなる」と意味の岩波訳を紹介していますが、何かそれに近い感じですね。人々も腸ハラワタに響いたのですね。マタイでは「律法学者のようにではなく、権威ある人のように」と書かれていますが、イエスの言葉の響きはもっと強かったのではないかと思います。お腹にガ~ンと響く、「何だ!この人の言葉の力強さは!」という感じだったのではないでしょうか。何でこの人の言葉はこんな事が出来るのか、悪霊でさえ支配する言葉!こんな力を持った言葉を今まで耳にした事がなかったのです。「肝を潰すほどに驚いた」のですから。この当時の正統的な宗教者は、神殿にお参りする、律法に違反した事に対して、償いの捧げものをして罪を赦してもらう事を人々に教えていたのです。

 

 

 

これに対して、カファルナウムなどガリラヤの多くの人々は、

 

律法を守る事が出来ない、神殿にお参りするお金がない、そんな人々がイエスの後に付いて行った、またそのイエスが起される出来事に癒される、そしてイエスの言葉に、肝を潰すほど驚いたのです。私たちはこの聖書が神の言葉だと信じなければならないと思い込んでいるのではないか、或る意味で「律法化」しているのではないでしょうか。そこまで「律法化」する必要はないと信じています。私の聖書の読み方、理解の仕方が全てではなくて、私の理解の仕方が悪くて、神の力、神の権威が潰される、壊される事は、起り得ないと思います。生きて働き給う神は、私たちよりはるかに力ある方ですから、神の子イエス・キリストもそうだと信じますので、その様なイエスが語る言葉、つまり聖書の内容は、私の理解を越えて、出来事を起こす言葉なのです。私の信仰が先ではないのです。神が働いて下さる、この事が先なのです。

 

 

 

今朝もここに自分で来た、とも思いますが、神に呼ばれて、召されてここに来た、「来なさい」と言われた事の中に私は居るのです。呼び出された者たちの集いが教会です。私がどんな人間でどんな信仰を持っているか、その事の前に、神が、つまり、イエス・キリストが私に「ここに来なさい。神の前に立ちなさい」と呼んで下さった、その力、この力の方が私の信仰より、遥かに大きく強いのです。

 

 

 ここで肝を潰すほどに驚く人々は、神殿宗教や律法から、捨てられた人々、罪人と呼ばれた人々です。その捨てられた人々を活かす力、権威ですし、病人を癒す力、権威を持った言葉、つまりそこで起る出来事と表裏一体の言葉なのです。律法学者の言葉は律法なのです。イエスの言葉は、言葉で在り出来事なのです。捨てられた人々活かす出来事をそこで起す言葉なのです。この事に人々はみんな、度肝を抜かれたのではないでしょうか。このイエスの言葉の凄さは、そこで起こされる出来事の凄さです。ガリラヤの小さな漁村に住んでいる貧しい人々、病人たちを活かす出来事を起こすイエスの言葉に人々は肝を潰すほどに驚いたのです。