「この小さな者の一人に」       2021年1月31日

 

  マタイ10:40~42  招きの詞 ルカ18:15~17

 

 

 

 皆さま、お早うございます。今読みました、「あなたがた」とは誰でしょうか。これは10章の1節に「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ」と在りますので、十二人のお弟子さんたちの事です。ペトロと呼ばれるシモン、その兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人マタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心等のシモン、それのイエスを裏切ったイスカリオテのユダの十二人です。同名の人たちがいますが、普段は区別する何かが在ったでしょうね。何故十二人かと言いますと、イエスラエル民族には12の部族が在ったと言われています。皆、アブラハムの子孫のヤコブの子供たちです。ヤコブは「神と格闘した人」の意味で、「イスラエル」と呼ばれ、ここからイスラエル民族が生れました。(創26:29)十二以外にも、レビ人などが実際には居ました。(新共同訳聖書巻末地図3にその地名)所で、12という数字も面白いですね。1年は12ヶ月、1日は12時間が二つ、1時間、1分は12の5倍60です。

 

 

 

 十二人弟子を「使徒」とも呼んでいます。この十二人に、「汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」そしてこの十二人を派遣されたのです。その際には、「異邦人の道に行ってはなまた、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イエスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国』は近づいたと宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、思い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われました。この記事は、実はマルコ福音書をお手本に、後からマタイが書いたもので、マルコでは6章7節以下に、もっと簡単に書かれています。十二人の名前は出て来ません。「二人ずつ組みにして遣わすことされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中には金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」。下着を2枚の話は、イスラエル地方は乾燥していて、昼は暑いのですが、夜はかなり冷えます。寒いのです。1枚では寒いでしょう。でも、2枚は着るなと言われました。ルカ福音書にもこの話は出て来ますが、マルコに近い書き方です。マタイは名前を書きましたし、「失われたイスラエルの羊の所に行くように」と書いているのは。マタイは、イスラエルの人々を意識して福音書を書いたと思われます。マタイ、マルコ、ルカと同じようですが、よく見ると違います。

 

 

 

 イエスはこの十二人を「この小さな者たち」と呼ばれました。そして、「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は必ず、その報いを受ける」と言われます。マルコでは「水一杯」で、ルカにはこの言葉は在りません。「冷たい水」ですが、水を冷たくするにはどうするか、ご存知ですか。ユダヤの様な暑い所で、水を冷たくする方法が在るのです。ロバやラクダに乗って遠くに行くと、水も暑くなります。所が、水を羊などの革の袋に入れると、革の細かい穴から水が蒸発して、気化熱を奪い、水やブドウ酒が冷たくなるのです。昔、日本でも夕方に、家の外の道に水を撒いていましたが、これも同じ原理で、水が蒸発する時に周りの熱を奪って涼しくなるのです。生活の知恵は遠く離れていても、同じ様に自然から恵みを得ていたのだと思います。

 

 

 

 この「一杯」という言葉には、水を修飾するのではなく、私の弟子の方を修飾する解釈も在ります。つまり、「私の弟子だという、たったそれだけの理由で」と考えるわけです。「たったの水」→「一杯の水」にも解釈できます。冷たい水はこの地方では貴重なものです。それを献げたというよりも、「ただ、弟子だからという事で」と考える方が、分かり易いと言う方も居られるわけです。「この小さな人の一人に水一杯を」というのは、何かしら大きな事、大事な事でなくても良いという意味だと思われますね。大金が掛かる事でなくても良いという意味でしょう。小さな人は、体の大きさではなく、重要人物ではない、何かを上げてもお返しが出来ない、弱く小さくされた人でも在るわけです。上げる時に返しを期待しないで上げるべきなのです。そしてここでは、何をしてあげるかではなく、また、上げるか上げないか、するかしないかの二者択一が問題では無く、「しなさい」と言っていると思われます。マタイ10:42は「私の弟子だという理由で」と、「この小さな者が私の弟子で在るという理由で」と読めるのですが、ここは別の解釈が可能なのです。ここの原語は、英語にしますと、「弟子の名前に向かって、into the name of disciple 」と書かれています。普通は「この小さな者が弟子と呼ばれている事に向かって」と解釈されています。しかし、ここでは「誰が」弟子であるというその名前に向かってなのかは、決められないのです。前後関係から、この小さな者がイエスの十二弟子なので、普通はこの様に訳されるでしょう。でも、水を上げる「あなた」、つまり私たちは何者なのでしょうか。私たちは、キリスト者、クリスチャン、つまり、私たちはイエスの弟子です。その「あなたが弟子であるというその名前に向かって、私たちは生きている」とも解釈出来ます。「あなたがキリストの弟子で在るのなら、この小さな人がどんな人で在れ、その一人に、水を上げなさいよ」と、イエスから、私たちが促されている様にもとれるのです。そうすれば、貴方は確かに、その報い、報酬を受けますよと言われていると解釈出来ます。

 

 

 

 「この小さな者に水を上げる人は」と、何か私と無関係な、一般論として読むのではなく、私のキリスト者としての生き方の問題として、ここを読ませて頂きたいのです。聖書は、何か固まりで、固定化されて読まれるべき書物では在りません。聖書は「生きている神の言葉」として、柔軟に読まれるべきです。ここで日本語になっている言葉だけが聖書だと思いがちですが、もっと自由に、生きた言葉として、固い石ころの言葉ではなく、私たちが生きていく道を導いてくれる聖書として、読ませて頂きたいと願います。私はキリストの弟子であるならば、その名に恥じぬように、しっかりと歩んで参りたいと願います。いえす・キリストから、励まし、慰め、希望を与えられている、キリストの弟子として、その名に相応しく、小さな人の事を心に留めつつ、歩みたいと願います。