「政教分離」バプテストの特徴Ⅴ   2019年12月8日

 

ローマ書13:1~7   招きの詞ローマ書13:8~10

 

 

 

 皆さま、お早うございます。誠に残念ですが、中村哲先生が悲劇の死を遂げられました。20秒ほど黙祷を捧げたいと思います。……有り難うございます。本当に大きな方で、取り返しがつかないし、代れる人がいないと思います。人の命を大事にしなければと益々思います。本当に有り難うございましたと心から申したいと思います。

 

 

 

 いま、バプテストの特徴の話をさせて頂いていますが、殆どがカトリックに反対するものです。あと1回、各個教会主義を来週話して、一応終わりたいと思います。その次の週はもうクリスマスです。今朝は「教会と国家」ですが、中々奨励が難しいテーマです。説明は出来るのですが、奨励になるのかどうか。だいぶ悩みました。こののぞみが連盟に加盟する際に、信仰告白に、教会と国家、政教分離の事が書かれていないので、連盟に加盟するのは早すぎるという反対意見も在りましたが、一応承認を頂き、感謝しています。教会と国家は別、政治と宗教は別でなければなりません。政教分離の基本は、「信教の自由」です。私たちがキリスト教を信じようと仏教を信じようと、国が干渉すべきではないのです。この信教の自由は言論の自由、集会結社の自由、というような市民としての自由につながる問題です。

 

 

 

 バプテスト教会の成立は、1500年代半ばに英国の聖公会の成立に始まります。これはカトリックから離れて、英国独自の教派で、その長は英国王が兼務します。教義はカトリックと殆ど同じですが、国王のいう事を聞かない者たちを弾圧しました。そこで聖公会分離派が生まれ、更にそこからバプテストが生まれました。少し遅れてピューリタンが、メソジストも生まれます。これに対して弾圧が加えられ、多くのバプテストやピューリタンはアメリカに逃れました。そんな状況の中で、教会に対して国家は別々で在るべきだとする政教分離が言われたのです。国家は教会の信教の自由を侵してはならないと主張したのです。

 

 

 

 政教分離は、中世まではなされていなかったと思います。古くはユダヤ教でも、神聖政治の一種で、宗教と政治は同じ指導者たちが指導していました。サウル王が立てられて、神に関わる祭司とかレビ人など居て、政治は別になりました。その前は預言者たち、志士たちが宗教と政治を動かしていました。ローマ帝国も神聖政治でした。ローマ皇帝は神で、キングではなく、エンペラーと呼ばれました。日本もそうだったと思います。日本では古くから、政治の事を「奉りごと」と言いました。奉る、つまり祀る、祭るです。神である天皇が政治を行いました。或る意味では現在も天皇が政治の中に組み入れられています。大嘗祭や即位の礼などありましたが、この神である天皇が、憲法に「国民統合の象徴」だと書かれています。国民をまとめる政治に利用されていると言えます。

 

 

 

 では宗教、神でなければ良いのかという問題が在ります。それも問題です。何かだけが独占的に政治に関わるのは良くありません。どうしても自由を奪います。現在の中国、北朝鮮は宗教は在りません。唯物論の共産主義ですから。でも共産主義が唯一の独占社会です。そして独占体制は独裁者を生みます。これは歴史が証明しています。ソ連でもドイツのヒットラーにしても、習近平や北朝鮮の金日成から正日、正恩と独裁者が続いています。つまり共産主義という考え方が神の代わりをするのです。それで共産主義の事を「擬似宗教」と言います。独裁者が神になって国に君臨し、独裁者は反対する者、勢力に弾圧を加えます。この様に独占社会、独裁者社会には自由が無くなっています。インターネットも国家がコントロールしています。信教の自由、言論の自由、結社の自由という様な民主国家の基本が否定されます。たとえ「人民民主共和国」と名乗っても、実際に独裁政治が国民の自由を奪います。

 

 

 

その意味で、教会は何を大事にしなければならないか、一つの言い方をしますと、キリストは私たちの自由の源なのです。そして私たちに喜びや希望を与えて下さるのです。ヨハネは「真理はあなたがたに自由を得させる」(8:32)と言い、イエス・キリストは「真理」です。その意味で政治が自由を約束するのか。政治に対して私たちが取るべき態度について、パウロのローマ書13章1節が在りますが、ここも中々難しいです。「人はみな、上に立つ権威に従うべきである」と言うのですが、政治権力がいつも正しいわけではないでしょう。しかしパウロは「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」と言います。政治がいつもそうであるとは思えません。現在の日本の政治は本当に自由で、平等で、国民に愛を持っているでしょうか。私は、非常に疑わしい状況だと思います。ローマ13:1の「人」という言葉は、プシュケー、魂と訳されている言葉です。「プシュケーはすべて」は上に立つ権威に従うべきなのです。この「人は皆」というのは単数形です。パウロが何を意図したのか、難しいです。

 

 

 

イエス自身は、世の権力に何と言っているのか。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護神と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」(ルカ22:25以下)イエス自身は当時の政治的な指導者を批判して、あなたがたは「守護者とよばれてはならない」と言っています。つまり、上に立つ者は必ずしも守護者ではないのです。民主主義では三権分立、司法・行政・律法は別でなければなりません。今は、三権が独立していない感じです。つまり、上に立つ者が必ずしも守護神ではないのです。逆に言えば、イエスの言う守護神は、民の上に権力を振るう方では在りません。神として主はイエス・キリストを通して、つまり、子なる神に依って、仕えて下さる神、だという事です。

 

 

私たちが教会と国家という時、いつも覚えていなければならない事は、その分離、政治が教会に対して権力を振るわせない、信教の自由を奪わせないことでは在りますが、しかしそこで止まってはならないのです。神はどんな方なのか、ここまで至らなければ真理は私たちを自由にしてはくれません。私たちの父なる神、子なる神、聖霊なる神は、私たちに仕えて下さる方として私たちを支えて下さる、その意味での「守護神」です。その意味で教会は真理を大事にしなければなりません。真理とは、上に立つ事ではなく、人に仕える事です。人の事を思う事です。その意味で、パウロが、13章の上に立つ権威に続けて書いている言葉が意味を持ちます。8節から「隣人愛」が述べられています。パウロが上に立つ権威に従うべきだと言う時、隣人愛を目指していると思います。そこに至る一つの道筋として言っていると思います。その道筋が混乱してしまうと、隣人愛も成り立たなくなる、だから、人(魂)は上に立つ権威に従えと言うのではないでしょうか。隣り人を愛する、そこに至る一つの道筋として政治、上に立つ権威の役割を見ているのだと、今は読ませて頂いています。民の上に立つ真理ではなく、民に仕える真理、つまり民を愛する真理、民を大事にする真理、これが私たちに自由を得させてくれるのです。自由を与えて下さる真理としてのイエス・キリストです。