「神殿よりも偉大なもの」        2018年24

 

 マタイ12:1~8    招きの詞詩編111:1~10

 

 

 

 皆さま、寒い中をお出かけ下さり、感謝致します。またお休みの方々のご健康が守られますように、お祈り致します。今日の週報は、付録がたくさん付いています。先週の奨励の要約と、松岡さんがアウシュビッツを訪ねて行かれての感想文がA4サイズなので折りたたんで、それと、今日のメッセージのための資料を印刷して挿んでいます。聖書は私たちキリスト者には命の糧です。本当に心を込めて、主に導かれて読んで参りたいと願います。だから聖書の言葉は聖霊の導きによって書かれたものだという気持ちが強いです。でも、その文字に拘りますと、実はいろいろな訳によって、その言葉が違うのです。日本語に。訳す方の信仰によって、言葉が違う問題がありますので、どのように理解するか、注意する必要が在ると思います。今朝の聖書の箇所で申しますと、新共同訳では「神殿よりも偉大なもの」と、「もの」が平仮名になっています。別紙の資料をご覧下さい。これが以前の口語訳ではい「宮よりも大いなる者」、文語訳も「宮よりも大いなる者」ですし、本田神父も「聖所よりも偉大な者」と「人」を指す「者」と訳してあります。しかし、ここは元の言葉では「者」を指す男性形ではなく、「もの」を指す中性形なので、新共同訳は「もの」と平仮名にしています。

 

 英語でもこの混乱は起こっています。新欽定訳NKJVは資料の裏に書いていますが、人に取れるOne greaterOne を使い、Good News Biblesomethingとはっきりものに訳しています。ルター訳を調べますと、流石、ルターはGrösseresと中性形に訳しています。昔、西南神学部で教えて下さったギャロット先生も「神殿以上に大切なもの」と訳されています。「神殿よりも偉大なもの」と訳されても、読む人が「者」に解釈されるかもしれません。この箇所では、神殿よりも偉大なもの」を其処に居られるイエスを指すと読める事から尚、この混乱は起こっていると思います。この箇所は本当にイエスご自身を指しているのでしょうか。イエスがご自身を神殿よりも偉大な者だと理解されて居たのでしょうか。

 

私の恩師猪城博之先生は、昔、「もの」主義と「こと」主義という事を仰いました。詳しい事は此処では割愛しますが、日本は古来「もの」よりも「こと」を大事にして来たと言われています。この言葉を拝借しますと、「神殿よりも偉大なこと」がここに在る、と訳せば、「者」との混乱は避けられます。ここでは「神殿よりも偉大なもの」とは、その次の言葉「もし、わたしが求めるのは、憐れみであって、いけにえではないという言葉の意味を知っていれば」(7節)を読めば、偉大なものは「憐れみ」だと分かると思います。これを「人に対して憐れみ深く在ること」と訳せば、なおはっきりします。この辺りから、聖書を訳す事が如何に大変な仕事で在るか、お分かり頂けると思います。イエスの思いを真剣に読み解き、言葉にする努力が要ります。単語を置き換えただけではいけないと思われます。責任が大きいのです。

 

これと逆に、その単語を勝手に自分の好きな言葉に訳しても、問題が在ると思います。このイエスの言葉は、ホセア書6:6からの引用であると、古くから理解されていました。ところが、この新共同訳のホセア書6:6は新約のマタイ書とは、全く別の言葉に訳してあります。資料に載せていますが、新共同訳のホセア書は「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく」と「愛」と訳されています。同じ新共同訳で関連が在る言葉なのに、全く違う言葉に訳されています。元の言葉は「愛アガペー」ではありません。「憐れみ」というのが近い言葉です。訳す人が異なると、この様な現象が起こっています。聖書を文字通り、神の言葉だと受け取るのには注意が必要だという気持ちになる事を、ご理解頂けるでしょうか。さらに例を挙げますと、この「憐れみ深く有ること」をギャロット先生は「あたたかい思いやり」と訳されています。これだと日常的に私たちが使う言葉ですから、分かりやすいですし、親しみが湧きます。読み手に対して、暖かい配慮が感じられますよね。私も今マルコ福音書を訳し始めましたが、こんな配慮で、訳したいです。もう一つ、ギャロット先生の訳では、新共同訳ではただ、「あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。」と一般的な「罪もない人たち」と考えやすいですが、ギャロット先生はきちんとそれが「弟子たちのこと」だとこの場面を、或る意味で噛み砕いて訳されています。これも読む人に配慮された訳だと思います。

 

あれこれとごちゃごちゃと訳の言葉を並べてしまいましたが、これでは、イエスの御心をちゃんと伝えた事にはならないと思います。皆さまもすっきりされないと思います。そこで、このマタイに記されたイエスの「神殿よりも大事なことがここに在る」と言われた事を私たちは、言葉の問題では無く、イエスがいま私たちに語って下さるとすれば、どの様に受け止めれば良いのでしょうか。私たちにいま神殿は在りません。ですからここをさっと読み過ぎることができそうですが、それで良いのでしょうか。そこで「神殿」を「教会」と置き換えてみました。「教会よりも大事なことがここに在る」とイエスに言われたら、どうでしょうか。キリスト者にとって教会は大事です。でも、教会よりも大なこと、それは「暖かい思いやり」をイエスは求めておられるのではないでしょうか。「私が求めるのは、暖かい思いやり(ギャロット先生訳)、人の痛みが分かること(本田神父訳)」だとイエスは仰っておられるのではないでしょうか。イエスの福音が人々に宣べ伝えられることと、教会が栄えること、大きくなることと思い違いをしてはいないでしょうか。日々、「暖かい思いやりをもって生きること、人の痛みが分かって生きること」を大事にするようにとイエスに促されているのではないでしょうか。私たちが日々何を大事にして生きているか、イエスから真剣に問われていると信じます。

 

 わたしたちは、人の痛みをどうすることもできません。「可哀そう!」と思う事は出来ても、それ以上の事は出来ません。でも、小さく非力な者となって下さったイエスに従いつつ、少しずつでも後を付いて行きながら、つまり、主イエスに祈りつつ、歩む事を促されています。具体的に痛みの中に在る人、在る人々を覚えつつ、イエスに執り成しの祈りをすることが求められています。「教会よりも大事なことが在る」と、私たちの日々の生き方にイエスは、大きな指針を示して下さいます。 

イエス・キリスト  アーメン