「名前に込められた意味」   2020年12月6日

             西福岡のぞみ教会員 三島真美姉

マタイ1:23         招きの詞 マタイ28:20

 

 待降節に証できます事 感謝です。この時期はイエス様のご降誕を想うのですが、最近は、同時に自分の誕生の時を想うようになりました。私は1963年12月24日福岡市博多区で生まれました。両親はクリスチャンではありません。産婦人科の先生がカトリックの信者さんだったせいか、その日はシスター達がキャロリングに来られ、院内に讃美歌の歌声が響きわたったそうです。私は1800gの未熟児で生まれ、即、院長先生自ら運転する車に乗せられ、九大病院に入院しました。三日の命、1ヶ月、3ヶ月と延び、退院する時、看護師が優秀な方で、お腹の異常を見つけ、即、ヘルニアの手術をし、「未熟児で成功!!!」と新聞に載ったそうです。

 

1963年、この年は、国内、世界が揺れ動いた年でした。11月にアメリカではケネディ大統領暗殺、日本では、三井三池炭鉱の爆発事故が在りました。しかし、経済はオリンピックの前年という事も在り、高度経済成長の只中、ヒット曲は梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」、坂本九「見上げてごらん夜の星を」、テレビ「鉄腕アトム」、「花の生涯」。私は生まれたてで覚えませんが、歴史を見て行く際、何度も耳にすることばかりです。私は両親から真心が美しくなるように…という思いを込めて「真美」と名付けられました。自分の名前の意味を振り返りながら、真心が美しい!!とはどういう事なのだろう?ばく然としていて何をもって美しい!!と決めるのだろうと思いました。ただ、人が神仏に向かって祈る姿を見ると、心が洗われます。「神様!」とつぶやくその瞬間、キリスト教徒で在ろうとなかろうと、人は誠実に美しくなっていると思う様になりました。

 

 ノーベル平和賞作家大江健三郎が、「信仰なき者の祈り」について触れています。彼は1963年、私が生まれた年に知的障害の有る長男・光(ひかr)さんをもうけます。この子は幼児期には、ほとんどしゃべらず、耳が聞こえるのさえ感じられない程でしたが、森に言った時、クイナが啼いたその時、光さんが「クイナです」と言うのを聞いた。幻聴と思われたけれど、確かに「クイナです」としゃべった。その時の様子をこう言われました。「その時どうしたかというと、私は祈っていたわけなんです。私は無信仰の者なのです。カトリックを信じない。プロテスタントも信じませんし、仏教も信じない。神道も信じていない。だけども祈っていた。目の前に一本の木がありましてね、今、自分がこの木を見て集中している。この今の一刻が自分の人生で一番大切な時かもしれないぞと思っていたんです。」しゃべらないと思っていた長男が、「クイナです」としゃべった瞬間でした。このように心を真直ぐ集中させる「祈り」の瞬間、人は誠実になれて美しいと思いました。「光」さんという名前は、障碍が在る子に「光」が当たっていく様に、つけられた名前だと思います。この初めに頂く名前は親のエゴ、なんとなく響きが良い、とか在りますが、少なくとも幸せになって欲しい、その様に生きて欲しいとの願いが込められていると感じます。

 

 イエス様はどうだったのでしょうか?「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。そのなはインマヌエルと呼ばれる。この名は「神は我々と共に居られる」という意味です。イエスという名は、ユダヤではありふれた名前だそうで、「神は救い」という意味です。マタイ伝の最後の方にイエス様の言葉が在ります。「私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」。天使のお告げ通り、ご自身もインマヌエル宣言をなさっています。イエス様の誕生はユダヤの人々にとって、長年、待ちわびた「福音」の出来事でしたが、この赤ちゃんは、生まれながらにして命を狙われた受難を背負って生まれて来た赤ちゃんでした。当時のヘロデ王は、自分より人気が在るメシアの出現を恐れて、2才以下の男の子を殺してしまった・・・という幼児虐殺が行われました。この事は、イエス様の周りには同じ位の男の子が居ない、寂しい少年時代だったでしょう。だから、友なき者の気持ちが分かられたのでしょう。

 

インマヌエル=神、我らと共に居ますこの「共に」という言葉の響きは「友だち」の「友」を連想します。「神、私の友となって下さいます!!」。この様に聞こえるのです。讃美歌「いつくしみ深き」も、友なるイエスがどの様に私と関わって下さるか、歌詞には、深く支えて下さろうとするイエス様の姿が目に浮かびます。あと、「まぶねの中に」もイエス様の公生涯を的確に表しているなあと思います。友だちが居なくて寂しい人生を送っている人を、一人一人訪ねては友だちとなるイエス様の姿が目に浮かびます。その様なイエス様ですが、自分が人々から何と呼ばれてるか気にされる場面が在ります。「あなたは私を何と呼ぶか?」私は今も、人生を通してずっと尋ねられている気がします。シモンは「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白しました。これを聞いてイエス様は、「ペテロ(岩)」と名付けて、天国のカギを約束されますが、イエスがキリストで在る事を、他の人に言ってはならないと戒められます。何故でしょう?そして数々の奇跡を起こした時も、この事を広めてはならないと言われます。「死から甦られたり奇跡を起こせるので、この方こそ、キリストです!!」と広める事がダメなのでしょうか?神と人々との関係をしっかり関わろうとしないで、ご利益の関係のみでつながる事を戒められるのでしょうか?イエス様は私たちがどう関わる事を期待されているのでしょうか?イエス様がキリストで在る事を伝えなさいという事でしょうか?キリスト教を広めると言うより、「福音」を生きなさい!!と言って居られます。

 

「あなたの神を愛せよ」という事と「自分を愛する様にあなたの隣人を愛せよ」という御言葉が浮かんできました。イエス様は「神は愛である」と言われました。パウロはコリント人への第一の手紙13章4節で、「愛はーー寛容であり、親切であるーー愛は。〔愛〕は妬まず〔愛〕は自慢せず、高ぶらず、ふさわしくない振る舞いをせず、自分自身のものを求めず、しかし、真理を共に喜ぶ。〔愛〕はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」(岩波版)と書いています。この「愛」という文字を、自分の名前と入れ替えてみて下さい。どれだけ自分の特質と当てはまりましたか?これを「イエス」と入れ替えてみて下さい。神様の特質が現われてくる様です。特に自分の利益を求めないというところで、イエスは自分の利益を求めない・・・。イエス様は何でもお出来になられる方だけど、その能力を、全部自分の事に使わないで、人を生かす為に使われた事は、スゴイ方だと思います。最後に若年性認知症の福田人志さんが造られた句を紹介します。西日本新聞に載せられた方です。「人は誰でも愛情という絆創膏を、痛んだ誰かに貼る事ができる」。

 

共に歩んで下さるイエス様は、人生の時が良くても悪くても、一緒に歩んで下さる方、まるで、友のように歩んで下さるお方、見えないイエス様を引き連れて、今日も歩んで行きたいと思います。