「聖書主義」バプテストの特徴Ⅲ      2019年11月24日

 

 ローマ15:4~6       招きの詞マタイ6:9~13

 

 

 

 皆さま、お早うございます。来週はもう12月で、今年もあと5週間と3日です。早いですね。でも連盟に加入してやっと10日です。また季節の変わり目で、体調を崩しておられる方も多い様です。どうぞお大事になさって下さい。バプテスト連盟の一員になったので、バプテスト教会の特徴は何かを話して、今日は3回目、「聖書主義」を掲げました。普通の教会では、聖書を大事にする事は当たり前の様に思われます。私たちは聖書を通して、イエス・キリストの励ましや希望を頂くと信じていますが、神からの働きが、聖書以外にも在る、という教会が在ります。大きく言いますとカトリック教会です。昨日法王が長崎にも来訪した様です。38年ぶりだそうです。法王の権威は絶対的でしょう。カトリックには叙階性、階級が在ります。法王以外にも、聖母マリアを信仰の対象にしているのでしょうか。聖母マリアがどんな役割をしているのか、私は知りません。それに多くの聖人たちが居ます。奇跡を起こす力を持っていたり、信仰が素晴らしい人たちでしょう。マザーテレサも聖人に列せられました。

 

 

 

 また、カトリックには7つの礼典、サクラメントが在ります。私たちバプテスト教会は二つだけです。浸礼(洗礼)と主の晩餐式です。カトリックの一つは、ご聖体、晩餐式のパンに当るものでしょうか、司祭から直接口に入れてもらう様です。それがカトリック教会の講壇の所に置いてあると、赤いランプが点いています。それに洗礼(幼児洗礼)、堅信、赦し、病気の人に塗油する事、それに叙階、それに結婚の七つが礼典です。これらを通して神が働かれる様です。この様に多くのものを通して神が働くのでしょうが、バプテストでは聖書だけと考えています。聖書を通して、つまりイエス・キリストの出来事を通して。神が私たちに語り掛け働きかけて下さるという信仰です。イエスのお働きが聖書に書かれています。その意味で、私も聖書を大事にしたいと願っています。同時にわたしの場合、なるべく元の言葉を、どの様に日本語にするか、これも大事だと考えています。この新共同訳聖書も一つの解釈で、いろんな訳の聖書が在り、優れている箇所や、少しどうかなと思われる箇所も在ります。

 

 

 

日本語として一つにまとめるのは大変な作業ですが、昨年から私は、主の祈りを、少し変えたいと願っています。毎週唱えている主の祈りは、聖書の言葉と少し違っていると思うからです。今年は教会組織会議とか連盟加盟などが在りましたので、今は外れているのですが、のぞみのこれからの課題の一つです。マタイとルカでは少し違いますし、どちらにするかは皆さんと一緒に考えたいのですが、少し聖書の言葉と違う所を修正したいと思っています。「罪の赦し」もマタイでは「負債を赦す」ですし、「日々の糧を今日もお与え下さい」も、「日々の糧を今日お与え下さい」です。主の祈りも聖書に忠実で在りたい。主の祈りが伝えられて来る過程で、伝える人々の信仰が入ってきたと思います。「負債」では分かり難いので「罪」にしたとも考えられます。

 

 

 

今朝は少し笑えるような言葉を紹介します。イエスが湖の上を歩いて来られる描写が在ります。ヨハネ6:19節です。16節から「湖の上を歩く」と題されている箇所です。「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。二十五スタディオンないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したところ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て」と在ります。スタディオンは直訳ですが、ピンと来ません。大体185センチ、背の高い人の背の高さです。25から30と言いますと、大体5~6キロ在ります。ここを山浦ドクターは「一里半ばかり漕ぎ出した所で」と訳しています、聖書に忠実にと言いましても、こんな所は工夫しても良いのではないでしょうか。その先です。「イエスが湖の上を歩いて来られた」と訳されていますが、ここは面白い単語が使われています。イエスは荒れ始めた波の上を歩いて来るのです。波はかなり上下しています。その上を歩くイエスも、かなり上下して歩くと思います。ここの単語は、す~っと来るのではなくて、波に上下しながら歩いて来る表現になっています。辺りが暗くなって荒れ始めた中を、何かがゆらゆら上下しながら近づいて来るので、弟子たちは怖くなったのです。如何ですか。ヨハネもその場面をリアルに描こうとしたと思います。私は表現の面白さよりも、ヨハネが一生懸命リアルに描こうとした事を思うと、読む方も少し工夫が必要かなと思います。

 

 

 

聖書は神の言葉で在るから大事と言われています。神の言葉と言う時に、一語一語に間違いはないと考える、無謬説とか逐語霊感説などと言われます。保守派の方々はそう信じています。アメリカ南部バプテストは、その解釈を強く信じて、その方針に従わない宣教師を排除したりして、日本バプテスト連盟はこの南部バプテストと袂を分っています。日本のバプテスト連盟の理解は、文脈、書かれた背景とかも考えて読むという事で、一つ一つの文字を無謬と考える立場ではありません。バプテストは、それぞれ個人の信仰理解を認めますので、逐語霊感説を信じる方も居ますし、聖書学者の中には、イエスの十字架について、いろんな解釈に対して、今までの考え方と違う事を言われる方も居ます。聖書は神の言葉である、と皆さんは何らかの意味で信じていると思います。一文字一文字がそうだと思わなくても、全体としては、神の言葉だと信じていると思います。そこで私は、「聖書は神の言葉である」というよりも、「聖書は神の言葉になる」と申したいのです。英語のbe動詞も、「~である」の意味にも、「~になる」の意味が在ります。聖書を読む人に向かって、聖書を通して、神が働きかけて下さると信じます。聖書が何か形にカチッとはまる様な事では無くて、命の無い構造物ではなくて、読む人の立場を神が理解されて、その人に対して語り掛けて下さる。ですから同じ言葉でも、受け取り方がいろいろ在り得ると思います。

 

 

或る言葉に非常に励まされる人もいるでしょうし、また、その人も状況が違うと受け取り方が変わり得ると思われます。神は、この聖書が「神の言葉になる」事を起こして下さると信じます。神が聖書を通して、私たちに語り掛けて下さる、或は、イエス・キリストの出来事を通して私たちに語り掛け、励まし、希望を与えて下さる事を思います。一つ一つの文字も大事にしなければなりませんが、その言葉を通して、つまり、聖書を通して、神が働きかけて下さる、イエス・キリストが私たちと共に今も歩んでいて下さる事と同じ様に、日々イエスが私たちと一緒に歩んで下さるのと同時に、私たちが読む聖書を通して、神は語りかけて下さる、つまり、この聖書が神の言葉になる、のだと信じます。ですから、聖書の言葉を固定的に決めつけなくても、神の言葉になって行く事が聖書を読む時に起るのだと信じます。その様に私たちを励まし希望を与えて下さるのです。ですから、日々、新たに聖書を読む事が大事なのです。それが掛け替えのない事であると、今、教えられています。文語訳、口語訳、新共同訳、或は英語の訳、個人訳、いろいろ在りますが、私たちが聖書を読む時に、神が聖書を通して働き語り掛けて下さる、ですから、聖書は神の言葉になる、と信じます。イエス・キリストが日々、私たちと歩まれながら、聖書を通して語り掛けていて下さる。感謝 アーメン