クリスマス・イヴ礼拝 メッセージ

 

 

 

「主イエス 怒り給う」2019年12月24日クリスマス・イヴ

 

マルコ3:1~6    招きの詞ルカ10:25~38

 

 

 

 皆さま、メリークリスマス 今夜は主イエスのご降誕を感謝し喜びたい時ですが、メッセージの題を「主イエス 怒り給う」と致しました。一昨日のクリスマス礼拝でも、このマルコ3章を読みましたが、「イエスは怒って、人々を見回し」と在ります。今夜、私の気持ちは「主イエスよ 怒り給え!」です。今年はいろんな出来事が在りましたが、残念な死を迎えた方々が居られました。今もまだ悲しみの中に居られる方々も大勢居られます。こんな状況に対して、「主イエスよ、怒り給え!」と思っています。先ほどの讃美歌の中にも在りましたダビデの星をバンクシーというストリート・アーティストが、ダビデの星の祭壇を作りました。後ろの衝立みたいなのはイスラエルとパレスチナとを分け                   

 

隔てる壁の一部も模しています。パレスチナの人々を隔離する壁でそこに星が描かれている様に見えますが、実はこれは壁を貫く銃弾の跡なのです。ダビデの星が銃弾の跡なのです。その壁を切り取って祭壇を作った形にしてあるのです。これをベツレヘムの壁の近くに在るホテルのロビーに飾っています。ホテルは「壁に囲まれたホテル」Walled-Off-Hotelという名前です。ダビデの星はイスラエルの民に希望を告げる星だったでしょう。

 

現代に於いてダビデの星がどんな意味を持っているのかを、このバンクシーのダビデの星は突き付けていると思います。ダビデの星よ、お前は本当に平和を告げる星なのか?平和と言いつつ、この銃弾の跡は何なのか?バンクシーは現代のクリスマスの意味を問うていると思います。「ダビデの星って何なの?」と問うていると思います。

 

 

 

 これを見て、尚、私は「主イエスよ 怒り給え!」と言いたくなったのですが、では、主イエスが怒られた時、私は主の怒りの外にいるのでしょうか。如何にも自分は怒りの外にいる様な思いこみの発想だと思います。悪人たちは自分ではなくて、別に居る、と思いこんで居る事に気が付きました。自分が裁き主にでもなっているつもりでしょうか。ここは問題です。でも、イエスが怒り給うたという事は事実だと思われます。イエスは手が萎えた人を癒すべきかどうか、皆に問いました。安息日であっても、癒すべきではないかと尋ねると、みんな黙っていたので、イエスは怒ったと在ります。そこでは律法学者たちが見張っていたでしょう。ですから人々も迂闊に「良い」とは言えなかったでしょう。神の使いを自負する律法学者たちです。真の神の使者なら、安息日でも癒すべきだと言うはずだ。なのに、誰も何も言わない。神の名によって自分が神の正義を行っていると見せかけている連中に、イエスは闘いを挑まれました。

 

 

 

 律法学者たち、ファイリサイ派の人達は、自分たちが神を利用しているとは決して思っていないでしょう。自分たちこそ正当な神の使いであると信じています。だからイエス・キリストの行動を、神を冒涜しているとして殺すべきだと相談を始めたのです。この様な状況に対して、イエスは怒られたのです。しかし、その怒りの矛先はどこに向けられたのでしょうか。確かに神の名によって人々を支配している連中への怒りです。でも、イエスの怒りは、悲しんでいる人々の気持ちと裏表の気持ちではないかと私は思っています。指導者を名乗る連中への怒りと同時に、犠牲になっている弱く小さくされている人々の悲しみ、これがイエスの怒りの裏に、表と分けられない形で潜んでいると思います。その悲しみを担う、その意味でのイエスの怒りと闘いだと思います。弱く小さくされている人々の悲しみを担う闘いです。

 

 

 

 イエスの闘いは、弱く小さくされている人、ここでは手の萎えた人、この人のライフを大事にする闘いです。英語で、ライフlife は「命」でも在りますが、「人生、生活、生き方」もライフもlifeです。「命」が具体的にどの様に「生きているか」の問題です。喜び、希望が在る人生なのか、悲しみの中に沈んでいるのか、その事を問わない、ただ「命」という事ではないと思います。命が沸き起こってくる、その人の人生、手が萎えた人の悲しみが分からなくて、どうなのか、という問題です。この事に関わるイエスの怒りと悲しみ、怒りを湧き起こす悲しみ、それがこの場面に響いているのではないでしょうか。この手の萎えた人の悲しみが分からない故に、ファリサイ派の人々も、ヘロデ派の人々も、出て行って、イエスを何とか殺そうと相談し始めるのです。そしてその通りに事は運びました。

 

 イエスが十字架に付けられて、殺された時、連中は「俺たちが勝った!」と思い、叫んだでしょう。でも実際の歴史はどうだったでしょうか。イエスの戦い、イエスの怒り、イエスの悲しみ、これが結局は勝っているのではないでしょうか。イエスの怒りが勝ちました。その意味も込めて、「主イエスよ 怒り給え!」と思っているのです。ファリサイ派の企みやヘロデ派の思いは、しばらく繁栄して勝った様に見えましたが、間もなく消えてしまいました。イスラエルの歴史と共に消えてしまいました。そして消されたと思われたイエスのこの闘い、悲しみを担う闘いが復活し、それがこの現代に尚、響いています。

 

 

 多くの人が悲しんだ中村哲先生の出来事の悲しみも在ります。松岡姉妹の死の悲しみもあります。いま、この時、悲しみに沈んでいる多くの人々の悲しみを受けて、担って下さった主イエスに、「主イエスよ 怒って下さい。そして勝って下さい」と、このクリスマスの時に祈りたいです。主イエスの怒りは何ゆえの怒りであったのか、弱く小さくされている人々の悲しみを担っての怒りだった事を見る時に、「主よ どうぞ 怒って下さい。人々の悲しみを覚えて下さい。今だに実現しない人々の悲しみからの回復、それ故の絶望を覚えて下さい。その意味で、怒って下さい」と私はこの世に生まれ給うた主イエス・キリストに祈る者です。弱く小さくされた人々を覚えて下さるイエス・キリスト アーメン